水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【ねこキラーの逆襲】第1章 女の子と、ねこの目の女の子 (1/3)

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「こんばんは、作品は書けましたか?」


 アパートの入り口のところにねこがいる。やや目つきの鋭い黒白のねこで、首輪はつけていない。遠くにいるときからずっとこっちをにらんでいたけれど、僕がアパートの間近まで来ると、弾かれたように駐輪場のほうへ逃げていった。ねこの姿は見えなくなった。僕はカギを回して、オートロックのエントランスをくぐった。階段をのぼっていると、駐輪場のすみにうずくまるさっきのねこの背中が、とても小さく見えた。
 部屋の鍵は開いていた。中に入ると、女の子は出かけたときと同じようにベッドの上に寝そべって、黄色い表紙のプログラミングの本を読んでいた。僕に気づくとちょっとだけこちらを見つめて、すぐに本へ視線を戻す。ただいま、と声をかけても女の子はページをめくる音を返しただけだった。僕はキッチンへいきやかんに火をかけた。湯が沸くのを待つ間に買ってきた食品をカバンの中から取り出して、冷蔵庫の中に入れる。ウィスキーの瓶を棚にしまい、切らしていた調味料を詰め替える。それから簡単にサンドウィッチを作り、沸騰した湯でダージリンの紅茶をいれて女の子といっしょに昼食にした。女の子はベッドに腹ばいのまま、何となく面倒臭そうにふたつかみっつ食べただけでまたすぐに黄色い表紙の本に戻った。ときどき、鉛筆で本に直接書き込みをするカリカリという生真面目な音を響かせる。僕は残ったサンドウィッチを時間をかけて平らげ、それからカップに残る冷めた紅茶を飲み干した。サンドウィッチの皿を流しに戻して、ポットに残る紅茶を温めなおして新たに注ぐ。空いたテーブルの上にノートパソコンを置いて起動させると、本を読む女の子が敏感な小動物のようにそれに気づいて顔を上げた。どこかしら眠たげな、そして不機嫌そうなニュアンスが混じるいつもの声で、女の子は訊ねる。書けそう?女の子に視線は向けず、どうだろう、とあいまいに答える。意識して、僕はパソコンの画面から目を逸らさない。女の子はもう二秒間だけ僕を見つめ、それからふいに興味をなくしたように視線を戻す。パソコンはまだ起動しない。ふと思いついて、僕は女の子に質問してみる。ねえ、「台風」って聞いて、何か思い浮かべるものはある?
 それって何か小説に関係あること? 手にした鉛筆で自分の頬を突っつきながら、女の子はこちらを向かずにどことなく冷淡な調子で言う。そうじゃないよ、と僕はうそをついた。全然関係ない。女の子は三十秒ほど空中を見つめ、ぽつりと、辛うじて聞き取れるほどの小さな声でつぶやいてから再びうつむいて本に集中した。揺れる信号機
 揺れる信号機、と僕は繰り返した。
 パソコンが起動を終えた。僕は「文章」フォルダから「アイスパレスの王女さま」のテキストファイルを開き、まだ途中までしか書きあがっていないその小説の内容を目で追う。主人公の少年とその相棒であるツバメという名の少女、それからアイスパレスの王女との会話シーンで小説は途切れている。その部分までひと通り読み終えてから、新しい展開をそこへ足そうとする。でもキーボードに指を置いてもその後に続くべき文章は簡単には見つからない。三人の対話の、その次の展開への漠然としたイメージすらつかめない。真っ白な空白に点滅するカーソルを見つめているだけで、時間はただむなしく過ぎていくだけだ、この数日の間ずっとそうであったように。僕は少しずつ紅茶をすすった。何かを書くあてがあったわけじゃない。ただ、アパートの前に座るねこを見つけたとき、何かが書けそうな淡い予感が胸にうずいた、ような気がした。でも現実的には何も思い浮かばないまま手許の紅茶が消費されていくだけだった。しばらくしてカップの中が空になり、ようやく僕は諦めることにした。同じことだ、結局今日も何も書くことができない、この数日間そうであったように。
 僕はパソコンの電源を切って、女の子に視線を送った。女の子はいつの間にかベッドの上で仰向きになって、本を胸の上に載せて天井を見つめていた。僕の視線に気づくと、こちらを向いて口を開けた。もう書かないの? 今は書けないみたいと僕は答える。それから、気分転換にゲームでもやろうと提案する。女の子は気が乗らないなというような技巧的な表情を浮かべたけれど、ともかくベッドから降りてゲームの準備を始めた。女の子に何かやりたいゲームはあるかと訊ねたけれど、返事はなかった。僕は適当なディスクを取り出してゲーム機にセットした。女の子はテレビにコードを繋げながら、ふと思い出したように訊ねた。さっきの質問なんだけど、「台風」って聞いて、キシは何を思い浮かべる?少しだけ考えてから、風に飛ばされるねこ、と僕は答えた。風に飛ばされるねこ、と女の子は繰り返した。そしてテレビの電源をつけた。冷え切ったブラウン管に、ゆっくりとゲームの画面が浮かび上がる。
 それから一時間ほど、僕たちはゲームをして過ごした。女の子はつい最近までゲームなんて触れたこともない初心者だったはずなのに、いつの間にかその操作はずいぶん巧みになっている。僕の行動を先読みし、裏をかく。たった一時間の間にも、女の子はどんどん上達していった。今はまだ僕のほうが強い。でもたぶん、そのうちに僕を追い抜かしてしまうだろう。ゲームを終えて、機械の片づけをしながらそう伝えると、女の子はつまらなそうに首を振った。所詮ゲームでしょ。そしてまた、ベッドの上に戻って黄色い表紙のプログラミングの本を読み始めた。僕は立ち上がってキッチンへ行き、やかんをコンロの火にかける。お湯が沸くのを待つかたわら、女の子に何か面白いアイディアは浮かんだか訊いてみた。まだそんな段階じゃないよ。女の子は本から視線を変えず煩わしそうに言った。まだ今は、純粋にプログラミングの勉強をしてる段階。計算機だってまだろくに作れないのに。
 僕はまたノートパソコンの電源をつけ、起動が完了する間に沸かしたお湯でコーヒーを作った。それを片手に、僕はもう一度テキストファイルを開いて、小説の続きを書こうとした。でもやっぱり、いくら時間を費やしても何も浮かんでは来なかった。さっきと同じように、ただコーヒーと時間だけが闇の中へと消えていくだけだ。仕方がないので、新しいファイルを開きその画面にさっき女の子の言った「揺れる信号機」という言葉をとりあえずそのままタイプしてみる。真っ白な画面に、その言葉は根をおろしたように自然に収まる。でも、次に何を書けばいいのかは全く分からなかった。僕はため息をついた。改行をして、今度は「風に飛ばされるねこ」と打ってみる。ひどく場違いな印象がそこに生まれただけだった。僕はすぐにその文字を削除した。
 僕は横目で女の子を見た。女の子はそれに気づかずじっと本を見つめている。ねこに似ているな、と僕は思った。何かをじっと見つめている様子が、何となくねこに似ている。女の子の瞳はねこに似ている。僕はほとんど無意識にテキストファイルの文字を消し、こんな文章をタイプした。「女の子の目は鋭いねこの目に似ていた。じっと見つめられると、心の奥底まで見透かされているような気がして、ひどく落ち着かない気分になる、そういう目だ」
 この女の子をモデルに小説を書こう、と僕は思った。それは何となく成功しそうなアイディアのように思えた。台風と女の子の短篇小説。ぬるくなったコーヒーをすすりながら、その構想に、僕はわずかに口許が歪むように感じる。その瞬間女の子がこちらを向き、何か書けそう? と目ざとく訊ねた。ダメっぽい。僕はまたうそをついた。短い文章をすぐに保存し、テキストファイルを消す。
 女の子本人が近くにいると、どうしても意識してしまって続きが書けないような、そんな気がした。僕はそれ以上書くのを諦めてノートパソコンを閉じ、本棚から適当な本を抜き取って、残りのコーヒーを飲みながらそれを読むことにした。手にしたのはドストエフスキーの分厚い小説だった。以前に一度読んだことがある。ぺらぺらとページをめくっていると、この作品の主人公についての描写をじっくり読んでみようという気になった。でも彼が登場するまでには六十ページほどの前置きがある。初めから読み始めればそこまでたどり着くのに一時間程度はかかるだろうと僕は見積もる。それでも僕は、一ページ目の序章から読み始めた。女の子は大抵、日暮れごろまで家には帰らない。日没までにはまだそれよりも時間がある。慌てる必要はどこにもない。それに、どうせ読み返すなら最初から最後まで通して読み直したほうがいい。そのほうが、作品の世界により深く潜り込むことができる。
 女の子が僕に声をかけたとき、主人公の青年はまだ登場していなかった。だから一時間は経っていなかったと思う。僕は女の子が何を言ったのか聞き取れなかったので、何か言った? と何の気なく訊き返した。それを聞くと女の子は少しだけ顔をしかめ、聞いてないんならいい、と不機嫌な声をさらに硬直させてつぶやいて、また黄色い表紙の本に向かった。僕がもう一度繰り返してくれるようお願いしても、聞いてないんならいい、と女の子は意図的に感情を込めない声で拒否した。どれだけ謝っても女の子は態度を変えなかった。あきらめてこちらも本に戻ろうとしたときにようやく、女の子はなじるような声で小さく言った。ねこはどうなるの?
 ねこ? 僕は何のとこか分からず上ずった声で繰り返した。
 飛ばされたねこ、不機嫌な調子を変えず女の子は言った。台風で飛ばされたねこのこと。キシ言ってたでしょ、「台風」って言われて思い浮かべるもの、風に飛ばされるねこだって。そのねこは、風に飛ばされて、どうなっちゃうの?
 ああ。僕はやっと理解した。
 どうなるの? 女の子はもう一度、念を押すように繰り返した。
 どこかへ飛ばされていっちゃうだろうね。
 どこへ?
 どこか遠くへ。
 それで?
 それでって?
 それで、ねこはどうなっちゃうの?
 墜落する。
 それで?
 墜落して、と言って僕は目を閉じる。そのとき僕の頭に浮かんだ、墜落するねこのイメージは、ついさっき見たアパートの玄関にいた黒白のねこだった。ねこはすごいスピードでまっ逆さまに落ちていき、硬いアスファルトに頭をぶつける。墜落して、死んじゃう、と僕は結論した。ねこは頭から墜落して、死んじゃう。
 墜落して、死んじゃう。女の子は何度か口の中でその言葉を繰り返した。それが終ると、きっぱりとまた自分の本へと視線を戻した。夕方になって家に帰るまで、女の子はそれきりひと言もしゃべらずひたすらプログラミングの本に集中していた。そのおかげで、僕はめでたくその日のうちに小説の主人公と出会うことができた。
 女の子が帰ってからも、僕は軌道に載ったストーリーに押されてしばらくその本の続きを読んでいた。そのうちに沈んだ陽の余韻も消えて部屋が暗くなり、明かりをつけるために立ち上がった。そろそろ夕食の支度をしなければならないけれど、料理をするには気が乗らないし、そんなにお腹も空いていないので、ナッツを齧りながらウィスキーを飲んで夕食に替えることにした。平たい皿に買い置きしてあるナッツの詰め合わせの袋をあけ、ベッドの上に寝転がって本の続きを読みながら食べた。文章が一段落するごとにウィスキーのグラスをすすっていると、酔いは思っていたよりもずっと早く廻り始めた。アルコールが進むのに従い、だんだんと文章を理解するのが面倒になっていく。僕は本を閉じてテーブルに置き、代わりに本棚から英訳のムーミンの絵本を取り出した。文字を追うことはせず、そこにある絵だけを眺める。すでに何度か読んでいるので、だいたいのストーリーは頭に入っている。話の中盤の、ちびのミィが登場するシーンを楽しみに読み進めていたけれど、そこにたどり着く前に眠りに落ちてしまう。目を覚ますと、時刻は夜の十時を少し過ぎている。
 ウィスキーの酔いはまだ根をおろしている。でも改めて眠りに就く気にもなれない。僕はノートパソコンを起動させた。ネットに繋いでメッセンジャーを立ち上げてみると、オンラインのメンバーの中に「クロ」と「夜鷹」がいる。しばらく適当にウェブサイトを回っていると、「夜鷹」のほうから話しかけてきた。
「こんばんは、作品は書けましたか?」
「まだ全然書けてないです」と僕は返事をする。「今までずっと書いていたものが行き詰って、諦めなくちゃならないみたいです。でも、代わりに新しいアイディアを見つけました。こっちはうまく書き上げられそうな気がします。締め切りはいつでしたっけ?」
「ちょうど十日後です。他の方たちの作品も少しずつ集まってきてますよ」
「楽しみですね」
「楽しみです」
 それから十一時半ごろまで会話が続いた。その途中でいつの間にか「クロ」はオフラインになっていた。「夜鷹」との会話が終った後、僕は確認のために彼のウェブサイトを訪れ、夏祭り競作企画投稿作品の募集要項を読み直した。「『夏休み』をテーマにした競作企画です。『夏』に関連したテーマを各自選んで、小説を投稿してください。原稿用紙換算で百枚以内とします。ジャンルは問いません。提出期限は八月末。……」僕は昼間保存した短いテキストを開いた。「女の子の目は鋭いねこの目に似ていた。じっと見つめられると、心の奥底まで見透かされているような気がして、ひどく落ち着かない気分になる、そういう目だ」今の僕が何を書けばいいのか、少しずつ分かり始めた気がする。僕の頭の中には揺れる信号機のイメージがくっきりと写っていた。そしてプログラミングの本をねこのように見入るあの女の子のイメージも。それを文章にすればいい。でも、何かを書くには酔いすぎていた。僕はパソコンの電源を切った。グラスに残っていたウィスキーをひと息に飲んで片付け、歯を磨いてからベッドにもぐりこむ。数時間前、このベッドの上に腹ばいになって本を読んでいた女の子のことを、何となく意識しながら僕は再び眠りに落ちた。

 

(次回更新 6/12)

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《あとがき》

「ねこキラーの逆襲」は、3年ほど前に書き終えた長編小説です。本当に長いので、じっくり更新していきます。書いていた時間もすごく長いです。試行錯誤の期間も含めれば、5年くらいは書いていた気がします。気が長いですね。そのおかげで、僕は本当にこの作品が好きです。

 ここで出てくる「夏祭り競作企画」は、実際にsagitta君が開催しているイベントで、僕も参加しています。今年もやるみたいなので、ぜひ足を運んでみてください。