水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【水中都市】僕とニーナとセルゲイ (3/4)

 雨が降っていた。

 家で退屈しているとセルゲイがやって来て、ちょっと話をしないかと持ちかけた。僕は了承した。外へ出て、駆け足で近くにある納屋へ向かった。もう使われていない朽ちかけたボロ屋だけど、雨を凌ぐことはできる。それに誰も来ないから、秘密の話をするにはうってつけの場所なのだ。
 雨は嫌だな、とセルゲイは言った。体についた水滴を何とか払い落とそうと試みていた。僕は定位置の椅子に座った。座れる場所はいくつかあるが、そこが一番落ち着く。髪に手を触れると、少し湿っていた。雨は嫌だね、と僕も答えた。
 でも、雨が降らないととても困る。セルゲイは扉を背にして地べたに座った。雨が降らないと、湖の水が枯渇する。生活するために必要な水が、確保できなくなる。
 湖が枯れたことはないけどね、と僕は答える。
 そう、神様がちゃんと雨を降らせてくれるからだ。セルゲイは指摘するように人差し指を立てて、演技的に言った。まるで長老の講義みたいに。僕もそのゲームにのっとって、生徒らしく質問した。神様がちゃんと雨を降らせてくれなかったら? セルゲイは厳かに言った。そうならないために、我々は祈るのだ。
 祈るのだ、と僕も繰り返して、セルゲイと目を見合わせて、笑った。
 朝から雨の音を聞きながら、考え事をしてたんだ。セルゲイは自分の手のひらを眺めながら静かに話し始めた。水は雨からやってくる。俺達が必要な量を、神様が降らせてくれる。雨が降って、湖に溜まって、そこから俺達は必要な量の水を取り入れて使っている。それが教えられてきたことだった。
 同意を促すように僕を見つめる。僕はうなずく。
 でも俺達は、森の中でもっと別の水を見つけた。また手のひらに視線を戻してセルゲイは続けた。ずっと流れ続ける水だ。音を立てて、いつまでもいつまでも流れていく。流れる量もいつも同じだ。すごい量の水が、いつも同じくらいの勢いで流れている。あれは一体どういうことなんだろう? どういう仕組みなんだろう? そのことが気になって仕方ないんだ。お前はどう思う? あの水は一体どこから来ているんだろう。
 僕は天井を見上げて考える仕草をした。たぶんニーナの癖を無意識に真似ていたのだろう。僕は自分の仮説をすでに用意していた。でもすぐにそれを持ち出すのが、何となくはばかられたのだ。
 この世界のどこかに、常に雨が降っている場所があるのかもしれない。僕は視線を下ろしてセルゲイを見つめ、いま考えついたことのように言った。その場所は常にすごく強い雨が降っていて、大きな水たまりができて、それが流れ出しているんだ。
 常に雨が振り続けている場所か。セルゲイは目を閉じて、その光景について考えているようだった。ゆっくりと目を開き、眉をひそめて僕に尋ねた。そこに人はいるのか?
 たぶん、と僕は答えた。
 そして、そこにいる人は常に祈っているのか? セルゲイの声は否定的に響いた。そのプレッシャーに押されたのかもしれない。特にしっかりとした考えがあったわけでもないのに、僕は答えた。きっとそこにいる人たちは、祈らない。その人たちが祈らなくても、雨は降り続けるだろうから。
 喉の奥でかすかな唸り声を出して、セルゲイはうつむいた。じっと、何かを考えている。沈黙は、僕には居心地悪く感じる種類のものだった。セルゲイはたぶん何かを恐れている。その恐れが伝播して、僕を不安な気持ちにさせたのだろう。雨がぱらぱらと納屋の壁に打ち付けていた。もしかしたら。うつむいたまま、自分でも半信半疑という声で、セルゲイは静かに言った。俺達の信じているものたちは、全然間違っているのかもしれない。物事は、本当は俺達の考えてもみない仕組みで動いているのかもしれない。
 僕は本気で祈ったりしないよ。反論するように僕は言った。僕は本気で長老たちの教えることを信じているわけじゃない。セルゲイは乾いた笑いを返した。俺だってそうさ。視線を上げ、じっと僕を見つめた。俺だって、神様が雨を降らせてくれるなんて信じちゃいない。たぶん大人たちだってそうなんだろう。そういうことじゃないんだ。俺が言いたいのは、そういうことじゃないんだ。
 また沈黙。湿った空気はいつもよりも重量を感じさせた。セルゲイは頭を垂れ、ひとり思索の中に浸かってしまう。僕は自分がかすかに苛立ちのようなものを芽生えさせていることに気づいた。何についてなのかはわからない。でもそれは確かに存在した。その苛立ちはもちろんセルゲイに向けられていた。けれどそれは、セルゲイを通り抜け、もっと根本的な何かに繋がっているようにも思えた。それは僕の不安を増強した。それは僕に地雷原の向こうの宝の山を思い起こさせた。宝の山、そしてそれが呼び起こした純粋な恐怖を。
 俺達の信じているものは全然間違っているのかもしれない。セルゲイはもう一度つぶやいてから、音もなく立ち上がった。なあ、ニーナの風邪はまだ治らないのか?
 苛立ちを継続させていた僕は、声は出さずうなずくだけで答える。セルゲイは小さく息をついた。強い風が吹いて、納屋に打ち付ける雨の音が一時的に強まった。明日もし雨がやんだら、とセルゲイは言った。青い石を探しに行かないか。ニーナのお見舞いに。いっしょに探して、あいつを喜ばせてやろう。もうずっと長いこと寝込んだままだもんな。
 夜にかけて雨と風は強まった。烈しい雨の音はすっぽりと村を包み込んだ。でも人々が寝静まった後、嵐は唐突に通り過ぎた。雨がやんでもしばらくの間風は勢いを衰えさせなかった。でもそれも日の出頃には収まっていた。朝、太陽の光を遮るものは何もなかった。真新しい陽光はたくさんの水滴たちをきらめかせ、ゆっくりと乾かしていった。僕とセルゲイは朝早く合流し、森へ向かった。地面はひどくぬかるんでいたけれど、僕らの足取りは軽かった。ニーナが喜んでくるくる回りだす光景を、僕と、たぶんセルゲイも、思い描きながら森の中へと足を踏み入れた。
 水の流れはいつもよりもやや強くなっているような気がした。いつもは透明な水も、雨のせいで濁っていた。僕たちは水の流れに逆らって、丸い石だらけの足場を滑らないよう慎重に辿っていった。
 僕らはあまり言葉を交わさず、黙々と歩を進めた。ニーナと遊ぶようになって、僕らはいつも三人で行動した。でも一週間くらい前からニーナが風邪で寝込んでしまって、僕とセルゲイはずいぶんと久しぶりにふたりだけで遊ばなくてはならなかった。それは、以前ふたりでいたときとは何かが違っているように思えた。別に悪い意味じゃない。でもあのころとは同じではない。その差異がどこにあるのか、僕は指し示すことができないのだけれど。
 青い石は三ヶ月前に洞穴の中で見つけた。今回も僕とセルゲイはその場所を目指している。水の流れを辿っていくと、流れに沿って片側が崖のようになった場所があり、そこに小さな洞穴がぽっかりと開いている。最初にニーナが、その暗闇の中でかすかに光るものを見つけた。深みのある青い光。それを発しているのは小さな石だった。親指の先ほどの小さな石、ただそのサイズの割に放出している光は強かった。もちろん僕らのうち誰も、そんな石を見たことはなかった。洞穴の奥にもうひとつ、入り口のあたりにもうひとつ、青い石は見つかった。僕らは最初三人でひとつずつ青い石を分け合ったけれど、結局僕もセルゲイも自分の分をニーナにあげてしまった。綺麗だけど、自分で持っていても仕方ないと思ったのだ。ニーナはひどく喜んだ。いままで見つけたどんなものよりも、ニーナはこの青い石を気に入ったようだった。
 洞穴の中にはたぶんまだ青い石があるだろう。僕とセルゲイはそう見立てた。だから水の流れを辿って、その洞穴を目指した。
 流れる水の勢いは、やはりいつもよりも強くなっていた。流れを辿っていくとそのことがはっきりと実感された。流れを遡るにしたがって、水の幅は少しずつ狭くなりその分流れの勢いは増す。今日はその勢いの増し方がいつもよりもずっと顕著だった。大雨の後湖の水位が上がるように、雨はこの水の流れにも影響を与えるのだ。僕は昨日自分の言ったことを思い出した。この水の出発点、強い雨が常に降り続き大きな水たまりを作っている場所。そこにいる祈らない人達。彼らは何に対しても祈らないのだろうか、それとも何か別のことを祈っているのだろうか。飛び石を渡りながら僕は考えた。飛び移るとき、足を滑らせて体勢を少しだけ崩してしまう。大丈夫か? セルゲイが振り返り手を差し出す。大丈夫だよ、と僕は答え、セルゲイの右手を力強くタッチする。祈らない人達。セルゲイの顔を見ながら僕はもう一度その言葉を心の中で繰り返す。僕もセルゲイもたぶん祈らない人だ。もちろん些細なことで良い結果を願うことはある。そうあって欲しいと根拠もなく思うことはある。でもきっと、本当の意味で祈ったことは一度もない。それは僕らが何かを所有したいと思わないからだ。手元にあるものを共有すれば、すべては足りる。それ以上は望まない。まして、何かを独占したいとは思わない。だから僕は祈らない。必要なものはすべてここにあるし、僕らはそれを共有できる。それができなかった旧時代の人類たちと、そこが決定的に違うのだ。
 飛び石は終わりまた平坦な道に戻る。洞穴まであと少し。
 なあ。歩きながらセルゲイは僕に尋ねる。青い石、たくさん持ち帰ったらニーナは喜ぶかな。
 もちろんだよ、と僕は答える。だって、あんなに喜んでたじゃないか。
 そうか、とセルゲイは小さくつぶやく。そして何故か、自分を元気づけるような内向きな声で言葉を続ける。それじゃ、頑張って探すか。
 もちろんだよ。僕は同じ言葉をもう一度、繰り返した。
 洞穴の入り口が視界に入ったとき、僕とセルゲイは奇妙なものを見た。
 青い人がそこにいた。
 青い人は洞窟の中の様子をうかがっているようだった。僕らはその後ろ姿を見た。全身が青く、その色合いはあの青い石によく似ていた。背はセルゲイよりも少し高いくらい。細身で、表面はつるつるしていた。でもその身のこなしは、僕らとほとんど変わらないものだった。
 青い人は僕らの気配に気づいて振り返った。たぶん目が合ったと思う。目があればの話だけど。僕らは叫び声を上げて逃げ出していた。青い人が追ってきたかどうかもわからない。僕らに意識を向けたのかさえわからない。ともかく僕らは力の限り走り続けた。少しでもその場から遠くへと離れるため。飛び石のところまで来ても、なおも逃げ続けた。僕もセルゲイもお互いを気にしている余裕はなかった。死にものぐるいで僕らは走った。体の奥の奥に染み込んだ、冷たく硬い恐怖に掻き立てられて。
 僕もセルゲイも自分たちの見たものをうまく言語化することができなかった。僕らはともに自分が恐れたものを言葉で再現することができなかった。何が僕らの心をあんなにも冷たくこわばらせたのか、後になって言い当てることはできなかった。
 全力で走るのを終えてからも、僕らはなおも足を止めず、黙って歩き続けた。ようやく足を止めたのは、最初の水辺のところまで戻ったとき。僕らは座り込み、じっと地面を見つめていた。沸き立つ心の中をうまく整理しようと試みて、そしてそれが、まるで成功しないことを確かめて。僕らはお互いの恐怖を共有することができなかった。だから言葉を交わすことさえできなかった。結局僕らは僕らの見たものを何ひとつ消化しないまま、それぞれの家路についた。また後で家に行くよ、と別れ際にセルゲイは言った。でもセルゲイは来なかった。僕はひとりで青い人との遭遇について考え続けていた。青い人。僕はニーナの持つ青い石のことが気になった。青い人は、あの青い石を探していたのではないだろうか? その考えがゆっくりと育ち、次第に無視できない不安へと駆り立てた。青い石を奪いに青い人がここまでやって来るのではないか? きっと青い人には、青い石の場所がわかるのだ。そして、どうしよう?
 遠くで雷鳴のような音が轟いた。でも空はよく晴れていたし、その音は雷鳴よりもずっとクリアな音だった。僕はその音の正体を掴めなかった。村の大人達の多くもそうだった。ごく一部、察しのいい人達がその音の出どころに思い当たって、それを確かめるために村の外へ出た。彼らの予想は的中して、彼らが帰ってくると村中が大騒ぎになった。その中心にはセルゲイがいた。セルゲイは村の大人たちに担がれて村へ戻ってきた。その右足の先は吹き飛んでいた。地雷原で、地雷を踏んだのだ。

 

(次回更新 7/8)

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《あとがき》

 前述のようにこの作品を最初に書いたとき、それはあまりにも慌ただしくて、僕は物語の装置をきちんと動かして作品を終えることができませんでした。
「地雷原」はそのときもありました。