水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【水中都市】僕とニーナとセルゲイ (4/4)

 夜まではまだ会話ができた。セルゲイは言った、地雷が見えなくなったんだ。

 明け方頃にセルゲイは死んだ。そしてその日の昼過ぎ、まるでセルゲイを追うようにニーナも死んだ。何もかもが一度にやってきて、僕は自分の感情がその事態に追いついていないことを他人のことのように知覚していた。驚かない。動じない。悲しまない。動かない。そして何もかもが昨日見た青い人と結び付けられてしまった。全ての出来事がそこに由来していた。何もかもがあの青い人が持ち込んだものだった。
 セルゲイは昨夜泣いていた。痛いからじゃない、地雷が見えなくなったからだ。彼は僕に謝ったのだ、彼はニーナを独り占めしようとした。彼は自分だけのニーナが欲しかった、どうしても欲しかった、だからひとりで宝の山へ行った。彼が、彼だけがニーナへ贈るプレゼントのために。その帰り道、彼は地雷を踏んだ。地雷が見えなくなったのだ。きっと俺はもう子供じゃない、と彼は言った。ニーナを欲しがったからだ、大人みたいに何かを欲しいと思ってしまった。だから俺は地雷が見えなくなった。俺はもう何かを自分のものにしたい人間になってしまったんだ。あんなになりたくないと思ってた、馬鹿な大人たちのように。
 僕は言葉が出なかった。
 考えてみれば、そういう気持ちはもっと前から生まれかけていたんだ。セルゲイは涙ぐむ目を天井へ向けて、悔いるように言った。俺はニーナに好かれたかった。俺だけを好きになって欲しかったんだ。ひとりで森の中へ行ってみたのも、そうだ。俺はお前よりも先に進んでいたかった。お前といっしょじゃダメなんだ。何かをニーナに差し出すのは、俺が先じゃなくちゃいけなかったんだ。馬鹿だよな。ニーナはきっと、そんなこと気にしないのに、俺は大人みたいなものの考え方をして、ニーナも同じように考えてると思い込んでしまう。だからダメなんだ。だから最後の最後で、こんなヘマをするんだ。
 ふたりの葬儀は合同で行われた。最後は同じ火にくべられて、仲良く灰になった。墓地もすぐ近くに作られることになっていた。ふたりが焼かれるころになって、僕はようやく涙が出た。体の内側から溢れ出すような圧力に襲われて、僕は声を上げて泣いた。待ってよ、と僕は叫んだ。待って、置いて行くなよ。ふたりで行くなんてずるいぞ、そんなの絶対に僕は認めない! 多くの大人たちはその意味を解さず、自分勝手に悲しみを煽られて僕を慰めようとした。違う。そんなんじゃない。僕の頭を撫でながら、自分が気持ちよくなるためだけの言葉を吐く大人たちに嫌悪を感じつつ、僕は自分の心の奥に本当に燃え上がっているもののことを、ひとりはっきりと見定めていた。
 セルゲイの墓に僕は最後まで残った。誰もいなくなって、僕は彼が生きていたときには一度も使わなかった言葉をかけた。ばあああああか。
 どのような意味であれ、それは本心だったと思う。

 葬儀が落ち着いたころにニーナの家を訪ねた。家の人たちはまだ悲しみの只中に沈んでいたけれど、ともかく僕を家の中に上げてくれた。ずっとニーナが伏せていた、ニーナの部屋へ案内してくれた。
 初めはただの風邪だと思っていたんだけどね、と家の人は言った。どんどん具合が悪くなって、髪が抜けたり肌がぼろぼろになったりして、最後はもうどうにもならなかった。あの子はいつも大丈夫って答えるんだけど、本当はちゃんと気づいてあげるべきだった。それが、それだけが心残りで。
 僕は尋ねた。ニーナが大事にしていた、青い石があると思うんですけど、どこにありますか?
 青い石? 家の人は不思議そうに繰り返した。どんな? いや、そんなものは見たことがないけど。
 そうですか、と僕は答えた。悲しみが伝染する前に、僕はニーナの家を出た。小さく息をついてから、ひとつ仮説を立ててみた。僕は注意深く村を出て、森へ向かった。セルゲイが地雷を踏んで、村の外へ出ることはいままで以上に厳しく禁じられた。地雷原はもちろん、村の大人たちは僕たちが足を踏み入れていたことは知らないだろうけど、森の中へ入ることも絶対にダメだときつく戒められた。それでも僕は、村の人たちに見つからないように森へ向かう方法を十個以上も知っている。それにいま、僕はひとりきりで悲しんでいることを許されている立場だ。急に姿が見えなくなっても、それほど不思議には思われない。実際誰にも見つからず、僕は森へ足を踏み入れた。ここへひとりで来るのは初めてのことだ。でもセルゲイは、ひとりで何度も足を踏み入れていた。そして僕の仮説に従えば、その最後の日にも。やがて僕は流れる水辺に辿り着き、そして右手の水の流れ去る方向へと足を進めた。道なりに進んだ先、僕らが秘密基地として使った打ち捨てられた戦車に辿り着く。僕とニーナとセルゲイが、宝の山で見つけ出した数々の戦利品を隠した場所。
 青い石は見つかった。中に入りハッチを閉じると、暗闇の中にかすかな青い光が見つかった。僕の仮説は裏付けられた。セルゲイは青い人と遭遇した後、僕と同じ不安に襲われたのだ。青い人は青い石を探しているのかもしれない、そしてそれを求めて、村へ奪いに来るかもしれない。青い石がここにあるということは、おそらくニーナの家を訪ねて、無理矢理にでも取り上げたのだろう。そしてこの場所へと石を隠した。ここなら仮に青い人がその在り処を探り当てたとしても、村からは離れている。きっとニーナはひどく悲しがったはずだ。その埋め合わせをするため、セルゲイは地雷原を越えて宝の山へ行ったのだ。ひとりで、僕に黙ったまま。
 戦車内部の暗闇の中、青い光に照らされて僕は泣いた。地雷を踏むときはいっしょだって言ったじゃないか。僕はひとり取り残された寂しさに打ちのめされていた。どうしていっしょじゃないんだ、どうして連れて行ってくれないんだ。僕のまわりには三人で集めた宝物が所狭しと並べられている。ふたりはもういない、これは全部僕だけのものだ。それが嬉しいって言うのかよ? 僕はセルゲイに話しかけるようにひとりつぶやく。わからないよ。全然嬉しくないよ。なあ、どうしていっしょに行こうって言ってくれなかったんだ、どうして自分だけのものにしたいなんて思ったんだ。セルゲイが言ったんじゃないか、僕たちは子供だ、永遠の子供だって。何かを独占したいなんて思う愚かな大人たちとは違う、大きな戦争を繰り返した馬鹿な世代の人間たちとは違うって。自分で言ったくせに自分だけそこから抜け出すなんて、ひどいじゃないか。ずるいじゃないか。ニーナを返せよ、僕だってニーナが好きだったんだぞ。でも僕たちは三人だった。三人でひとつだった。僕はそう信じてたのに、違ったのかよ。ふたりでどこかへ行きやがって。僕を置いて行きやがって。会いたいよ、セルゲイ。ニーナにも会いたい。ねえ、僕らは三人だ。三人じゃなきゃダメなんだ。もう何もわからない。教えてくれよ。こんな場所に取り残されて、僕はこれからどうしたらいいんだよ?
 青い石は戦車に残した。僕は村へ帰った。もう二度と、戦車の中の戦利品には手を触れないことに決めた。もう二度と、地雷原の向こうへ足を踏み入れないことに決めた。
 僕は真面目に勉強をするようになった。長老のところへ行って話を聞いたり、古い本を読むために司祭のところを訪ねたり。僕はとにかくいろいろな知識を吸収した。いろいろなことを考えてみた。ニーナとセルゲイと遊び歩いていた時間を、ほぼ全てそのように過ごし、その変わり様はまわりの大人たちをひどく驚かせた。人が変わったようだと言われたし、ふたりの友人がいなくなって悲しいのだろうと同情の目を向けられることもあった。きっと村のために重要な役割を担う人物になるだろう、と満足げにうなずく人もいた。彼の見立ては全然間違っていたのだけれど。
 ひとりでいるときは、よく森の中の水の流れについて考えていた。その始まりは、常に大雨の降る祈る人を持たない土地。では、その終わりは? 流れた水はどこへ行くのだろうと疑問に思う。あれだけ大量の水が、どこへ消えてしまうのだろう。答えはなかなか出なかった。それはあまりに大きな謎だった。
 僕はそれを確かめようと思ったのだ。
 理由はわからない。でも、一度その考えが芽生えるとあっという間に僕の心に根付いてしまい、もうそれ以外の選択肢はありえなかった。村を出る。そして、水の終わる場所まで辿り着いてみせる。どれくらい時間がかかるかはわからない。何が現れるかはさらにわからない。でも、ともかく、あの水の流れを降りていけば必ず何かが現れる。僕はそう確信していた。そしてそのことを思い描くとき、僕の心は静かに波打った。そこには僕の本当に求めるものがあるような、根拠のない予感があった。僕はそこへ行かなくてはならない。それが僕のやるべきことなのだ。
 知識はそのために必要だった。何も知らないままでたどり着けるとは思えない。少しでも多くのものを知っていなければならないのだ、ひとりで生き抜いていくためには。
 ある日僕は何も言わずに村を出る。まだ日の出には時間のある夜明け前、僕は暗く沈む森へ入る。夜の森は真の暗闇だった、月明かりはほんのわずかな量さえ届かない。僕は自作した松明を取り出して火を点けた。以前の僕であれば、こんな些細な道具を作ることさえできなかった。僕は知識を詰め込んだ。ひとりで生きるための知識を。僕はもうひとりなのだ。
 東の空が白み始めたころ、水の音を聞いた。川は相変わらず清らかな水を左から右へと移していた。このような水の流れを川と呼ぶことを、僕は長老から教えられた。古語だ。それが何を意味しているのか、正確なところはわからないと説明された。大戦前に発達していた水道設備を表す言葉かもしれないと長老は推測した。でも僕は、その言葉を聞いてすぐに理解した。これが川だ。この流れのことを川と呼ぶのだ。そして、それを示す言葉があるということは、川は珍しいものではない。それはありふれたものなのかもしれない。ただ僕らが知らないだけなのだ。
 俺達の信じているものたちは、全然間違っているのかもしれない。セルゲイの言葉を思い出す。あのときそれは否定的に使われたのかもしれない、でもいまは、僕にとってその言葉は未知なるもの全般を示す肯定的なものだ。僕たちの信じているものたちは、全然間違っているのかもしれない。新しい真実がそこには広がっている。
 川を下っていくと、打ち捨てられた戦車が見えた。でも僕は自分で立てた誓いにしたがってそれを素通りした。三人のものでないのなら、僕のものでもない。青い石も、もういらない。青い人がうまく見つけてくれたらとさえ、いまの僕は思う。必要としているものの手に渡ればいいのだ。それで十分だ。
 日が昇る。太陽は木々の梢を照らし、生命の息づかいを森に与える。それに沿うように、川の流れは軽やかな水の音を響かせる。戦車のある場所より先へ行くのは初めてだ。ところどころで道は険しく、足取りは常にスムーズという訳にはいかない。それでも僕は、浮足立つのを抑えるように歩く。歩くごとに確実に、川の終わりに近づいているのだから。未知なるものに近づいているのだから。
 僕は歩き続ける。
 全ての答えは必ず新しい疑問を生む。
 その言葉を、僕はこの瞬間ほど鮮やかに感じたことはない。川の終わりに何があるのか、その答えは目の前に広がっていた。僕は青い広がりを目の前にして、ただ途方に暮れていた。森の木々の隙間に、遥か彼方まで広がる、あまりに青くきらめく膨大な量の水があった。水の地面が見える先までずっと平らに続いている。僕らの村の湖なんて比較にならない。川の水だって些細な量だ。想像もできない量の水がここにある。はっきりと確かめたわけじゃないけど、おそらく川の水はここへ流れ込んでいるのだ。この湖は溢れたりしない。溢れるためには、本当に気絶するくらいたくさんの水が必要となるだろう。
 でもいつか、溢れるんじゃないのか?
 僕は笑った。お腹の底がくすぐったくなるような、じっとしていられない気分にさせる笑いだった。すごい、すごい。僕は無意識のうちにつぶやいていた。セルゲイ、ニーナ、見ているか? こんなにすごいものを見つけたよ。こんなにすごい場所があったんだよ。信じられるか? あれは水だよ、水があんな馬鹿みたいにたくさんあるんだ。僕はまだ、信じられない。一体この世界は、本当のところ、どうなっているんだろう? 全然考えもつかないよ。僕たちの知っていることなんて、本当に限られたものでしかなかったんだ。この世界は本当に謎だらけみたいだ。
 すごいな、とセルゲイは言った。
 ニーナは目を丸くして、遠くの方を見つめていた。
 かすかに音が聞こえる。細かな砂が流れるような、膨大な重みを感じさせる周期性のある音。あの水の塊と関係があるのだろうと僕は思う。
 近くまで行こうぜ、とセルゲイは言う。見ているだけじゃもったいない。
 駆け出すセルゲイにニーナも続く。
 僕も追う。荷物があって、彼らのようには走れない。でも大丈夫。彼らは待っている。彼らがどこかへ行ってしまうということは、もうない。
 寄せては返す水。不思議なほど白く、細かく均質な砂が水際に広がっている。その砂を定期的に洗う波は体の内側を震撼させるような響き方をする水の音を絶えず生む。広がる水の先は見えない、ただ一直線に空と水の境を区切る線が引かれているだけ。空の色より水は濃く、思い出の中にある青い石の色合いとそれは非常に似通っていた。
 ここが始まりなんだ、と根拠もなしにそう思う。
 砂の上に腰を下ろし、青い水の彼方を眺めながら思うこと。
 この水の先には何がある? この水の先に誰かいる? この水の上にも雨が降る? この水もまたどこかへ向かう? この水の波はなぜ起こる? この水はいつからある? この水はなぜこんなにも青い? この水はなぜ塩辛い? この水は、一体どれだけの量がある?
 何も知らない。何もわからない。大戦前の人々は、たぶん知っていたのだろう。でも、そもそも僕は大戦のことでさえろくに知らない。知っているのは、こうなったということ。いまの僕らの世界がこうなったということ。それで十分だと思っていた。僕とニーナとセルゲイは、遊んでいればよかった。与えられたものを使って、日々を面白く、過ごすことだけで手一杯だった。
 いまはひとりだ。
 僕は知りたいと思う。何があって、なぜ、このようになったのか。僕らの世界はなぜ、いまこのようになってしまったのか。こんなにも豊かな世界をなぜ、僕らは閉じ込めてしまっているのか。戻ろう、と僕は思った。村へ戻り、調べるのだ。「なぜ」を解き明かすために。古い資料はたくさんある。聞くべき話もまだまだ残されている。簡単にはいかないかもしれない。多くの秘密が隠されているだろう。僕はそれを探り当てたい。見えないままの過去を、見えるようにしたい。
 その決意に呼応するように、水面から何かが姿を顕した。水がそのまま縦に盛り上がったのかと思ったが、違った、水の色によく似た何かが姿を見せたのだ。それは三体いて、まっすぐこちらに向かっていた。その姿には見覚えがあった。青い人。僕は瞬間的に立ち上がり、逃げようとした。後ろを向いた瞬間、右足首に激痛が走った。何かが僕の足を貫いたようだったが、その正体はわからなかった。
 青い人が近づく。パニックに陥る頭の中で、しかし不思議なほど一貫として、次の疑問がはっきりとした文章の形を取って僕の頭の一部を支配し続けた。
 青い人は一体何者なのだろう?
 その答えを知るのは、もう少し先のことになる。

 

(次回更新 7/15)

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《あとがき》

 思っていたよりも、長いお話になりました。でも書き終わっても何かまだ書き足らないような気分です。彼らについて、もっと何か書けたんじゃないか、という。そういう気分がもっと強まると、たぶん長編小説が出来上がるのだけど、とりあえず今回はここで終わり。タイトル通りこの三人はそれでひとつのユニットで、そしてそれは崩れてしまった。最初に「お題バトル」でこの作品の原型を書いたとき、そういう結末まではたどり着けなかったのだけど、ちゃんと書けば、それは避けられなかったのだろうな、といま書き終わって思います。