水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【水中都市】水の音1032(1/2)

 女は肌にまとわりつくような笑みを浮かべながら黒いシリコン製のイヤーピースを俺の両耳の穴にねじ込んだ。

 そして音楽ファイルを再生させた。しばらくの無音。しかし地の底から沸き立つようにして、何か膨大な物量を予感させる音がケーブルを通して伝えられる。いや。音は最初から現れていた。俺の意識がそれを正確に拾っていなかっただけのことだ。壁を隔てて取り囲まれている、すでに前提条件のようにもなっている雨の音。それにとてもよく似た音、水の音。手元のグラスからウィスキーをひと口飲んだ。女はその行為を誤読し、嬉しそうに笑う。スマートフォンの画面を指で弾き、新たな音楽ファイルを起動させる。それも同様に水の音、想像を絶する量の水が高所から落下し地響きのように空気を震わせる、ような、言葉にすればそんな音。女と目を合わせたくなかった。だからグラスの中の琥珀色の液体を見つめながら、何か考えているふりをした。

 女は俺の肩に体を寄せ、スマートフォンの矩形の画面を眺めつつ何か熱心に囁いていた。馬鹿なのか? シリコン製のイヤーピースを通して流れ込む水の音に阻まれ、その言葉は何ひとつ俺の耳には届かない。女の右手の親指の動きに合わせ、音楽ファイルが改められた、別の水の音、また変わる、変わる、変わる、次々に現れる水の音に何を期待すればいいのかわからなくて、俺は条件反射のようにグラスの中身を少しずつすする。女の顔がふいに近づく。少しずつ、だが着実に、何かの水位はじわじわと上昇を続けてある地点へと俺を導く。


 アルコールを摂取するのはずいぶん久しぶりのことだった。


 昼から雨が降っていた。日は沈んでいなかったが、すでにあたりは薄暗かった。時折湿った風が吹きつける。大して強くはない、ただ、湿度を感じさせてひどく不快だった。傘の保護域からわずかにはみ出るカバンは、少しずつ雨粒を吸い込んで蓄え始めていた。自宅までの道のりを思い描いて、小さなため息をついた。大して遠くはない。そこに大きな困難が待ち構えているわけでもない。それでもため息は何かの合図のように意図せず漏れた。何かを予感していたのかもしれない。
 ねこがいた。向こうからこちらへと歩いている。キジトラの柄で、雨の中を進んでいた。もちろん雨のせいでぐっしょりと濡れていた。ねこは濡れているということについてまったく意識を払っていないようだった。疲れ切っているようにも見えたし、何もかもを諦めてしまっているようにも見えた。
 立ち止まって、近づきつつあるねこを見つめた。傘に落ちる雨粒の音を、そのとき初めて意識した。ねこはうつろな視線を足元に落としたまま、俺の存在に全く意を介さず、見向きもせず、順調に距離を縮めた。目の前まで来た。通り過ぎようとしていた。それでもキジトラは、俺に一瞥もくれなかった。歩度を緩めることさえしなかった。ここなら雨に濡れないよ。テレパシーの能力なんてあるはずもないのに、半ば本気で伝わると信じて俺はその言葉を念じた。ねこは反応しなかった、もちろん。立ち止まる俺の足元の本当に近いところをねこは通り過ぎた、その場所は傘に守られて実際に雨に濡らされなかっただろうけど、それを恩恵とも思わないようにまた、キジトラは雨の中を進んでいった。
 ふられたな、と思った。そしてそれは予想以上に心をえぐった。あのねこは死ぬだろう、と俺は思った。数歩歩いて、そして唐突に沸き立った激情に似たものに突き動かされて振り返り、視界の中にねこを探した。キジトラの姿はもうなかった。


 そんなことを思い出していた。女はイヤホンを引き抜いて耳元間近で何かをささやきかけた。機械的に飲み進めていたウィスキーのおかげでひどく酔いが進んでいた。そこから先の記憶は霞がかって消えてしまっている、すべてがあいまいで、形を為さず、確かなことは何ひとつ覚えていない。
 そういうことにさせてください。


 ウィスキーはまだたっぷりと残っていた。
 ふとしたときに目に入るたび、嫌な気分になった。流しへ全部捨ててしまおうかとも思った。でもそのときに立ち上るであろう鼻をつく匂いのことを想像して、その気持ちもあえなくくじけた。誰か訪ねてくることがあったら、無理にでも押し付けて持ち帰ってもらおう。暫定的にそう決めて、とりあえず気分を落ち着けた。つもりになっていた。
 簡単に夕食を済ませたあと、何かに体を奪われてしまったのではないかと本気で疑うほどの気の替わりようを示して、俺はタンブラーにウィスキーを注いで飲み始めていた。
 ぼんやりと、部屋の壁を見つめていた。特に何かがかかっているわけでもない、面白い壁紙が貼ってあるでもない、無地の白い壁。たっぷり一時間が過ぎ去っても相変わらず見つめ続けていた。見つめられ続けていても、壁は些細な変化も見せなかった。何の変化もなかったし、何の発見もなかった。タンブラーに注ぎ込まれたウィスキーの水位が、ほんのわずかな下降を続け、底をつきかけるとふいに急激な上昇を見せる、それだけがこの部屋に見られる唯一の活動だった。
 雨は降っていなかった。もうやんだ。ときどき家の前の道を通り過ぎる車の音が届くくらいで、周囲は静かだった。音を立てるものはほとんどなかった。
 にも関わらず俺の耳は奥底で水の音を拾っていた。ささやかな量の滴り落ちる音などではなく、膨大な物量を予感させるひどく小さく抑えられた重みのある轟音。それが空耳であることは、そもそもその音を感じ取った瞬間に気づいていた。耳に押し込まれたシリコンの不快な感触さえ慎ましく伴っている。水の音はやまなかった。音は大きくなることも小さくなることもせず、一定のまま、持続していた。


 それからの数日間、特に特筆すべきことはない。
 簡単な夕食のあとでウィスキーを飲む。そして聞くはずのない水の音を聞きながら、ぼんやりと何かを見つめながら時間を過ごす。やがて寝てしまえば、翌朝には水の音は消えている。夢の中で水の音を聞くこともあったが、その内容と水の音とは一切の関わりを持たなかった。純粋なBGMとして、それはささやかに響き続けるだけだった。そんな数日間が繰り返された。
 キジトラのねこを見かけることはなかった。探したが、いいものにせよ悪いものにせよ、あのねこの手がかりとなるものは何ひとつ見つけ出せなかった。
 雨も降らなかった。したがって現実的な雨の音も、この数日間のうちには発生することはなかった。


 数日後に事件が発生した。ウィスキーが底をつきたのだ。


 仕事帰り、駅前の成城石井に立ち寄って手頃なアイリッシュ・ウィスキーを買った。自分でアルコールを購入するのはさらに久しぶりのことだ、あのウィスキーは女が持ち込んだものだった。帰宅し、すぐにタンブラーへ注いでひと口飲んだ。何も聞こえなかった。部屋は無音のままだった。夕食が必要なのかもしれない。そう考えて支度を始めた。しかし同じことだった。夕食を終え、いつもの手順でウィスキーを煽っても、水の音が蘇ることはなかった。アルコールの熱が喉から胃へと嚥下されるのをただ感じ取るだけだった。
 そんなはずはない。そう頭の中で繰り返しつつ、ウィスキーを飲み続けた。その涙ぐましい努力は、しかし、ついに実を結ぶことはなかった。


 夢の中で雨が降っていた。雨は烈しく、そしてたゆまず、いつまでも降り続けていた。夢の中で俺はその光景をただひたすらに眺め続けていた。
 夢の中に音はなかった。映像だけの、それは無音の夢だった。


 女と社員食堂で出くわした。
 目が合って、一度気づかないふりをして視線をそらし、すぐに諦めてもう一度目を合わせた。無視されるかと思った、女は笑いながら言った。まさか。俺は心にもない返事をして食事の乗ったトレイを片側へ寄せスペースを作った。女はそこへ自らのトレイを置いた。小さめのカレーライスとグリーンサラダ。水を取ってくる、と言って女は席を離れた。
 俺自身の食事はほとんど終わりかけていたので、そのまま食器を下げて食堂を去ってしまおうか、という考えが頭をよぎった。しかしもちろんそれを実行に移すだけの覚悟があったわけではない。女は戻ってきた。隣に座り、グリーンサラダをつつき始めた。ウィスキー、と俺はつぶやいた。持ってきてもらったウィスキー、あれ、何だっけ。何ていうウィスキーだっけ?
 気に入った? 女は嬉しそうに目元を歪めて視線をよこす。わたしも銘柄とかよくわかんないけど、美味しかったならよかった。売ってる場所、覚えてるから今度また買ってくるよ。ね、今度いつ遊びに行こうか? 金曜日は空いてる?
 ちょっとまだ分からない。無表情のまま小さくそう言うと、女は軽くうなずいて、平たい皿のカレーライスを食べ始めた。切り上げるにはいい潮だった。そうすればよかったのだ。しかし俺は余計なことを尋ねてしまう。この前の。そのひと言に女は過剰に反応してこちらを振り向く。あの、聞かせてもらった水の音。あれ、何だったの?
 ちゃんと説明したのに。言葉自体は詰るような内容だったが、女はとても嬉しそうな声音でそう言った。だから水の音で何を言っているか聞こえなかったんだよ、俺は心の中でだけそう反駁した。今度また教えてあげるよ。女は笑みを浮かべたままそう言って、カレーライスをひと口食べた。それから思い出したように目を輝かせてこちらを向き、まるでそれが素敵な提案ででもあるかのように希望のこもった声でこう言った。ね、やっぱり金曜日遊びに行くよ、ウィスキー持ってさ。だから予定開けておいてよ、絶対だよ!


 ところで金曜日を待たず俺は「水の音」の出処を知ることになる。


 その日の夜、女がLINEのメッセージにウェブサイトのURLだけを書いて送ってきた。他に何の説明も添えられなかった。
 十分に怪しみながらも結局俺はそのサイトにアクセスする、それは「水の音」というタイトルのブログだった。頻繁に更新される記事は音楽ファイルがアップされているだけの簡素なものだった。そしてそれら全てが水の音だった。音楽ファイルのデータ名から察するに、アップロードされた音楽データの総量はすでに600を超えている
 音楽データ、それ以外に何の情報もない。ブログ記事の中にイントロダクションさえ含まれていない、最初のポストから記事は何の補足もなくただ水の音の音楽データがアップロードされているだけだった。記事は日に一、二度のペースで書き加えられ、ひとつの記事にひとつの音楽ファイルというのが原則になっているようだ。最初の投稿からすでに二年近く経過している。
 予測通り、ひとつひとつの音楽データはそれぞれ違う音のようだった。そのヴァリエーションは豊富だった。ダム湖の放水を思わせるような轟音もあれば、滴り落ちる雫の立てる軽やかな音もあった。川のせせらぎもあれば、どう聞いてもトイレのフラッシュとしか聞き取れないものもあった。
 まず、最初に思ったことといえば、狂気じみている、ということだろう。実際狂気じみている。どのような手段かは分からないが、さまざまな種類の水の音を集めてきて、何の説明もなしにただひたすら小分けにアップロードしていくだけのブログ記事。読者がつくとは思えないし、仮についたところで、このブログにはコメントスペースが設置されていない。また、ブログ管理人についての情報も一切記載されておらず、したがってメールを送ることさえできない。コミュニケーションの手段は遮断されている。情報の流れは一方通行で、その情報自体もどう解釈していいものか途方に暮れる。誰が、一体何の目的で? 少なくともこのブログ記事それ自体から読み取ることは途方もなく困難だ。
 ひとつの仮説を立てることは可能だ。あの女が正体なのだ。
 根拠は乏しい。つまり、自分で書いたのでなければあの女はどうやってこの記事を見つけてこられるというのだ? しかし、逃げ道はいくらでもある。俺が知らないだけで、一部の人間の間ではこのブログはよく知られているのかもしれない。今、旬の話題なのかもしれない。ニュースサイトか、まとめサイトか、SNSか、ともかく何かでクローズアップされれば情報はまたたく間に伝播する。限定された情報が瞬時にホットなトピックになる。これもそういう種類のものなのかもしれない。狂気じみた水の音収集サイト。何がヒットして拡散されるかなんて誰にも分からない。
 それに、あの女の性格からしてこんなナーディな趣味に没頭しているとも思えない。交友関係は十分に広く、適度に流行を追いかける術も心得ていて、趣味はテニスとボルダリング。陽の光をたっぷり浴びている種類の人間だ。キャラじゃない。ひと言で言えばそういうことになる。
 キャラじゃない。


 その日、261番目まで聞き終えた。水風船が割れるときのような音だった。

 

(次回更新 6/10)

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《あとがき》

 友達とカラオケに行って、「水の音231」というフレーズが頭に浮かんだのが出発点(ごめんなさい、数字は適当です)。暗い部屋で、延々と水の音の音楽データを聞いている男、というイメージをもとに書いています。そのままですね。倦怠感とディスコミュニケーションというモチーフは、ありふれて面白みはないけれど、つい書いちゃいます。僕がそういう人間だからでしょうか。でもこの主人公自体は別に僕と繋がりはありません。それにしても、雨って嫌ですよね。後半に続きます。