水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【ねこキラーの逆襲】第2章 ねこを殺したことはある? (3/3)

3   

「わたしにはねこを飼う資格なんてなかったんだ

 そしてその子は出ていった、あたしたちは引きとめなかった。ユサはいつの間にかバーテンダーが差し出していたグラスの水をひと口飲んで、抑揚を抑えるように静かに言った。他のふたりは知らないけど、あたしが引きとめなかった理由はふたつある。まずは、単純に今引きとめたって聞かないだろうって分かっていたから。何ていうか、そういうのを期待している雰囲気は全然感じられなかった。そしてもうひとつは、この仲たがいが一時的なものに過ぎないってことをあたしが十分に理解していたから。あのね、このふたりは本当はものすごく仲がいいんだよ、そういう深い友だちというものを持たないキシには全然分からないと思うけど。それは血の繋がりとも違うし、恋愛でもない。それなのに不思議なくらい通い合ったところがある、そういうふたりなんだ。前世はひとりの人間だったのかもしれないね。ともかく、ふたりは一緒じゃなきゃやっていけないんだ。どちらかが欠けるということが許されない。そりゃ、お互いたまには陰口も利くけど、それだってそういう信頼関係をベースにしている、というところがあった。どんな悪口を言っていたとしても、その後に括弧をつけてそれでもわたしたちはお互いのこと好きなんだけどねって加えている雰囲気があったし、それはあたしにも、もうひとりのメンバーにも分かっていた。だから確かに今回のねこに関する出来事はそれなりにハードで辛くて難しい状況ではあるけれど、結局収まるところに収まるだろうというのが、あたしの感じている率直なところ。それはたぶん本人たちも共有している考えだと思う。必要なのは時間だけだし、あたしたちには特に時間に迫られてる用件もない。もちろん来週の水曜日にはライブハウスで演奏する予定もあったけど、誰かに特別求められてるわけでもないから、キャンセルすればいいだけのこと。もちろんキシを含めて事前に予定を空けてくれてた人には申し訳ないけど、それだってそんなに多い数じゃないから、こうして説明して謝ることもできるしね。代わりに演奏してくれる人も何とか見つけた。そんなわけであたしたちのバンドは目下のところ一時休止状態、まあそういう次第なんですよ。
 話の終りを印象付けるためだろうか、ユサは最後にはにかんだような微笑を浮かべた。それはユサには全然似つかわしくない笑みだった。どことなく、そうは言ってもまだ懸念材料はございますがと言っているみたいに思えた。だから僕はそのまま訊ねてみる、まだ何か他に懸念材料があるの? ユサは少しだけ目を丸くして、僕の顔をじっと見た。そしてそれを誤魔化すように視線をはずし、奇妙に昂ぶった声で言った。もちろん、まだそのねこ殺しが見つかってないって問題もある。あたしだって落ち着かない。今もあたしの友達のねこを殺したかもしれない人間がどこかで息を潜めていて、そして次の獲物を狙っている。噂やデマなんかじゃなく、今も実際にねこが殺され続けている。嫌なことを思い出すんだ、忘れたいと思っている嫌な出来事を、無理やり蘇らせられる。それで、心が落ち着かなくなる。だからあたしは、そんな馬鹿なことをする奴が、無意味にねこを傷つけるような奴が、余計憎らしくなる。どうしてそんなことをするんだって、問い詰めてやりたい。そんなことをする必要がどこにあるんだって。そういう怒りと一緒に、昔あった嫌なことを連鎖的に思い出して、あたしは誇張じゃなしに精神的にキツくなる。つまり精神的に不安定になるんだ、ぶっちゃけたところ。ときどき本当に立ってられないくらい参っちゃいそうになる。ねえキシ、続いてるって感覚はびっくりするくらいヤバいよ、だってそれは、これからも続くって事だから。終りがないんだ、いつまでも。今回のことでそれがもろにあたしにとってダメージなんだ。何とかそれと折り合いをつけられればいいと思うんだけど、どうなるかは分からない。それが、懸念材料のひとつと言えなくもないのかな。
 ユサはおつまみに出されていたナッツを齧って、水を飲んだ。空になったグラスに、離れた場所にいたバーテンダーが素早くやってきて水を注いだ。そしてまた、ここに留まることをはばかるように離れた場所へと去っていく。僕はついでに注ぎ足してもらった自分のグラスの水をひと口飲んで、生のウィスキーを口に含んだ。それからゆっくりと、ユサのいう「昔あった嫌なこと」について考えを巡らせてみた。でも答えは出なかった。ユサがトラウマめいたものを抱えていることを、僕は知らない。と言うか、ユサに関する思い出というものを僕はほとんど持ち合わせていない。成人式の二次会で再会したとき、声をかけてきたのはユサのほうだった。僕は彼女の名前を聞いても彼女のことを明確には思い出せなかった。確かに小学生のころそのような珍しい苗字の女の子がいたような気はする。でもユサの言うことが正しければ、彼女は小学五年生のときの一年間しか同じ学校にいなかったし、そもそも僕と同じクラスでさえなかった。当然ながら面識なんておよそゼロだ。でもどういうわけかユサは僕のことを憶えていて、そして成人式二次会の会場で僕に声をかけた。どうしてわざわざ僕に声をかけたのか、僕は知らない。同級生たちがほとんど手をつけていないビールを片手にひとりぼんやりしていると、私服姿の細身の男が近づいてきた。でも声を聴くと、それは女性だった。お酒は好きなの? と彼女は訊ねた。それなりに、と僕は答えた。あたしもだ、とそいつは言って、丸テーブルに放置されたビールを手に取った。
 僕はもうひと口ウィスキーをすする。今の僕にはそれくらいしかやることが残されていないのかもしれない。それでもふと、僕は思い付いてユサに訊ねようとした。それを実際に口にする直前に、僕は自分が一体何を聞こうとしているのかに気づいて、ぎょっとした。それを胃の奥に押し込むように慌てて目の前のウィスキーをすすったせいで、液体は気管に触れてしまい僕はひどくむせた。ユサが心配して声をかけるくらい烈しく僕は咳き込んだ。でも熱をもって痛む気管を気にするよりは、無闇に思い浮かべてしまった不穏当なその質問をユサに向けなかったことを心から安堵していた。僕はユサにこう訊ねようとしていた、ねこを殺したことはある? と。僕はグラスの水を喉を鳴らして飲んだ。すぐにバーテンダーがやってきて、空になったグラスを水で満たす。その水をさらに半分くらい飲み干して、ようやく落ち着いた。おしぼりで口を押さえながら、もう大丈夫、と僕は苦笑いを浮かべてユサに伝えた。ユサは何となく呆れるような目を僕に向けて、それからメニューを手に取ってそれを眺める。バーテンダーを呼び寄せて、ユサはカルーアミルクを頼んだ。僕も手許のウィスキーがなくなりかけていたので、別のウィスキーを注文した。バーテンダーはまずカルーアミルクから作り始めた。その後に、後ろの棚から僕が指名したウィスキーのボトルを探し出す。それを小さなグラスに注ぐ。ふたりの飲み物がそろうまで、僕たちは暫定的な沈黙を保持した。離れた席に座るサラリーマンたちの酔いをあらわにした笑い声が、店内に小さくかかるジャズのBGMを覆い隠す。
 差し出されたスコッチに口をつけていると、ユサが奇妙に疲れをにじませた声で僕に訊ねた。キシは、ねこ殺しってどんな奴だと思う? 僕は首を横に振って、分からないと答える。世の中にはたぶんいろんな種類のねこ殺しがいるし、そもそもその地域に現れたねこ殺しはひとりじゃないのかもしれない。模倣犯のようにして、それは複数いるのかもしれない。ユサは感心したようになるほど、とつぶやいた。確かにそうだ、そいつは複数いるのかもしれない。それは全然考えなかったな。そしてストローでカルーアミルクをひと口飲んでから、ユサは唐突にとある地下鉄駅の名前をつぶやいた。その駅って、キシが通学で使ってる路線から途中下車できるよね? 僕は黙ってうなずいた。キシの通ってる大学はいつから始まる?(十月に入ってから)通学用の定期はまだ残ってる?(残ってる)そして、キシは今のところ割とヒマなんだよね?(九月に入ればたぶんもっとヒマになる)なるほど。
 ユサはまたひと口カルーアミルクを飲んで、口を結んだ。僕もひと口ウィスキーをすする。じんわりとしたつかの間の沈黙を僕は楽しんだ。でもやがて、その静寂をユサが引き剥がすことは分かっていた。ユサは口を開いた、ねこ殺しはその駅の周辺に現れるんだ、他の場所にも現れるけど、特にそのあたりに集中してる。僕は小さくうなずく。それでね、とユサは眉間に小さくしわを寄せ、カウンターの向こうの棚の上のほうをにらみながら、痛みをこらえているみたいな声で僕に言った。もし、キシが、すごくヒマなときがあったら、一度その駅を降りて、ぶらぶらとそのへんを歩き回ってみて欲しいんだ。もちろん、それでねこ殺しが見つかるなんて思ってないよ、そういうのを期待してるわけじゃない。何ていうのかな、キシがその街について感じた印象を、あたしは知りたいんだ。ときどきキシはさ、すごく面白いことを言うんだよ。物の見方だとか関連の持たせ方だとか、あたしとは全然違ってる。あたしじゃ気づかないことも、キシはきっとたくさん気づく。だからさ、キシには一度その駅で降りてもらって、適当にそのあたりをぶらついてもらって、それについてあたしに話を聞かせて欲しいんだ。別に全然具体的なことじゃなくていい、訳の分からないことでもいい。何となく感じ取った、それこそ匂いのようなものの話でいいんだ。それはもしかしたら、ねこ殺しについて理解する、何かの手がかりになるかもしれない。ねえキシ、あたしはねこ殺しについて知りたいんだ。あいつらがどうしてねこを殺すのか、それをどうしても知りたいんだよ。もちろん実際にねこ殺しを捕まえたり、それかあたしの友達のねこを見つけたりしたらそれはそれでいいんだけどね。だから念のため、そのねこの写真は後でキシの携帯に送っておくよ。でもとりあえずの目的は、キシにその地区をてくてくと歩き回ってもらって、そしてその話を聞かせてもらうことなんだ。もちろんちゃんとお礼はするよ。またこのお店に来てお酒をおごってもいい、あたしは飲みながら話を聞かせてもらう。ねえ、どうだろう? 一日でも半日でもいいから、とにかく空いてる時間があるようだったら、一度お願いできないかな?
 言葉を終えて、ユサは僕をにらんだ。さらに深く額のしわを寄せ、不機嫌そうに口をつぐみ、細めた目でじっとこちらを見る。でもそれは、実際にはにらんでいるわけじゃない。ユサの懇願する表情が、大抵の人にはにらんでいるように見えるというだけだ。僕はすぐに返事をする代わりにウィスキーに口をつけ、その甘い余韻を楽しむ。いいよ。しばらく時間を置いた後、自分でも意外に思うほどの重苦しい声で僕はユサの提案を受け入れる。いいよ、どうせ大学生の夏休みはけっこうヒマだし、一日くらい潰しても構わない。でも、お酒をおごってくれるのは最初の一杯だけでいい、そうじゃないと落ち着いてその次を飲めないから。それで、行くとしたらいつ行けばいい? そこを歩き回った話をいつユサに報告すればいい? 僕の問いに、いつでも、とユサは答える。いつでもいいよ、明日でも明後日でも再来週でも。それはキシの好きにすればいい。それで、歩き回った後あたしにメールをくれれば、こっちの都合のいい時間を教えるから、キシの都合のいい時間とも調整して、会う段取りを組めばいい。それで十分だよ。僕は小さくうなずいた。
 それから程なくして僕たちは店を出る。若干目眩のような感覚はあったけれど、強かに酔ったというほどじゃない。ユサも顔はわずかに赤らんでいたけれど足取りはしっかりしている。自宅まで送る必要はなさそうだ。店先で少し立ち話をした後、去り際に僕はユサに訊ねてみた。最近UFOを見なかった? ユサはまた眉間にしわを寄せて、UFO? とオウム返しした。そして忌々しそうに首を横に振った。見てないよ、そんなもの。見るわけないじゃん。それとも何? キシはあたしが危ないクスリでも使ってんじゃないかって思ってるわけ? 冗談めかしてあるいはと言うと、ユサは怒って僕の脚を蹴る真似をした、もちろんそれも技巧的な演技なのだけれど。そのやり取りの後、僕は静かに言った。つい最近、僕の知り合いが見たんだ。
 UFOを? とユサが訊ねた。UFOを、と僕は答えた。ユサは目を閉じてそれについて考え、やがて何かをあきらめるように小さく首を振り、その弾みで思考がこぼれ落ちたみたいにぽつりとつぶやいてから大きく手を振って自宅のほうへと歩いていった。類は友を呼ぶってやつだね。じゃあね、おやすみ、バイバイ! その背中をじっと見つめながら、類は友を呼ぶ? と僕は大きな疑問符をつけてユサの言葉を反芻していた。ユサが角を曲がり僕の視界から完全に姿を消してからようやく、僕も自宅に向けて歩き始めた、もちろん最寄の地下鉄駅に向けて、ということだけれど。
 二十分ほどして、僕はアパートに戻った。エントランスを通るときに何かの気配を感じて振り向くと、垣根のそばにあの目つきの鋭い黒白ねこがたたずんで、こちらを無音でにらんでいた。あたりは暗く、ねこのお腹の側の白い部分と、こちらを見つめるオリーブ色の瞳だけが闇に仄かに浮かんでいる。僕としっかりと目が合っても、ねこは身じろぎしなかった。ただ挑むようにこちらを見つめるだけだ。僕は怪我をしていないかを確かめようと思って、ねこに近づいた。でも僕とねこの距離がある一定の猶予を失った瞬間、弾むゴムまりめいた動きでねこは闇の向こうへ消えてしまった。
 部屋に戻ってももちろん女の子はいなかったし、その気配の余韻もなかった。僕は部屋の明かりをつけずにカーテンを引いて、夜空を眺めた。そこには何の光も浮かんではいなかった。この街では星さえ満足に光らない、雲が地表の光をわずかに反映させて、不気味に白く浮かぶだけ。僕はカーテンを閉じ、歯を磨いて顔を洗った。ベッドにもぐりこみ、目を閉じた。眠りに就く前に、ユサとの会話をひとつひとつ思い出した。それらの情景はユサの仕草とともに、脈絡なくぽつりぽつりと浮かんで消えた。ねこ殺し、とその情景の中でユサは言った。
 ねこキラー、と僕は思った。そして眠りに落ちた。

 

(次回更新 7/24) 

f:id:akaikawa25:20150531100248j:plain

《あとがき》

 バーは好きです。お酒が好きなことはもちろん、そこそこ静かで、あんまり明るくなくて、それにお酒をたくさん飲んでも居心地の悪い気分にならなくて済む。

 友人と話をしながら、というのもいいけど、ひとりで飲むのも好きです。あんまり絵にならないので、小説の中でそういうシーンを書くことは、あまりないけど。