水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【ねこキラーの逆襲】第2章 ねこを殺したことはある? (1/3)

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「この小説は惨めさ以外の何ものも表していない

 二日酔いの予感とともにゆっくりと目覚めた僕は、しばらくベッドから出られないでいた。立ち上がると同時に眠っていた二日酔いの気分の悪さが巨大な波となって襲い掛かってくるような気がして、起き上がるのが怖かった。ここでずっと横になったまま、ゆっくりと穏やかにやり過ごせればいいと願ったけれど、それ以上に今は喉が渇いていた。グラス一杯の水が飲みたい。やがてその欲求に抗し切れなくなって、僕は覚悟を決めて体を起こす。いくらか眩暈はしたけれど、思っていたほどその症状は強くない。若干フラつく足取りで、僕はキッチンへ行き冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注いでひと息に飲み干す。もう一杯注いで、ゆっくりと飲む。ひとまずのどの渇きは癒えたけれど、今度はコーヒーが飲みたい気分になった。やかんに水を入れてコンロの火にかけ、リビングに戻る。時間を調べようとテーブルの上の携帯電話を手に取ると、メールを受信していることに気づいた。
 時刻は七時少し過ぎ。メールはユサから送られていて、「ライヴ中止のお知らせ」というタイトルが添えられていた。着信時刻は昨日の夜十時ごろ。僕はベッドに腰をおろして、その内容に目を通す。「来週の水曜日に予定してたライブは諸事情により中止になりました。/キシに売ったチケットを返金したいので明日の夜会えない?/ヒマならお酒でも飲もう!」僕は返事が遅れたことを詫び、今夜は特に予定もないので大丈夫、と書いてユサに返信した。二日酔いのことも忘れて、「お酒を飲もう!」と書き添えさえした。しばらくぼーっとしていると湯が沸く音が聞こえたので、キッチンへ行きコーヒーをいれた。それを飲みながらローテーブルの上のノートパソコンの電源を入れ、画面に向かう。昨日ラストシーンまで書き上げた「アイスパレスの王女さま」のテキストを、普段は大学のレポートを作るために使っている論文作成ツールを用いて縦書きの文章ファイルに改めて、USBメモリに保存する。その作業が終ると急にまた眠気が襲ってきた。僕はパソコンを閉じてベッドにもぐりこみ、目をつむった。軽い眩暈とあたたかな闇に包まれて、僕はすぐに眠りに落ちる。浅い眠りの中で、眠ってはいけないと僕は焦る。だって、そろそろ女の子の訪ねてくる時間だから。でもその次に、いや、いいんだと僕は考え直す。昨日女の子は、しばらくここには遊びにこないと宣言した。きっと今日この部屋に来ることはない。だから、いいんだ。そして眠りのもやに包まれて、僕は奇妙な夢を見る。夢の中ではずっと雨の音が響いていた。目の前に拡がるのは、以前確かにどこかで見たことのある風景なのだけれど、それがどこなのかがはっきりしない。交通量の多い道沿いで、それが国道であることを僕は知っている。雨のせいで道は混んでいて、ネオンの光や緩やかに移動する車のライトが濡れたアスファルトに賑やかに反射している。そういう道沿いの歩道に、若い男が直に尻をついて座り込んでいる。濃紺のスーツにネクタイを締めた会社員ふうの男で、傘も差さずに全身ずぶ濡れのまましきりに前髪をいじっている。ただひたすら、機械的に、前髪をいじり続けている、その光景が繰り返されるだけの夢。最後に一度だけ、男は卑屈そうに小さく笑って、惨めだってさ、と誰にともなくつぶやいた、でもそれは、目覚めた後の僕の頭がおこなった脚色だったかもしれない。夢と現実の間をさざなみのように行ったり来たりしつつ、僕はゆっくりと目を覚ます。夢の中で響いていた雨の音が、エアコンの駆動音とリンクしていたことにぼんやりと気づく。雨の降る光景と同様、僕はあの若い男にも覚えがあるような気がした。でもやはり、それが誰だかは分からない。
 ベッドから起き上がって時刻を確かめると、すでに十一時を過ぎている。二日酔いの気分の悪さはほとんど消えていた。その最後の一押しというわけでもないけれど、気分転換に風呂に浸かることを思いつく。さっそくバスタブに湯を張る準備をする。それを終えてリビングに戻ると、ローテーブルに載せたままのマグカップのコーヒーが目に入る。もちろん中身はすっかり冷めているけれど、飲めないわけじゃない。それをすすり本を読みながら風呂の用意ができるのを待っていた。途中で携帯電話にユサからのメールが届いていることに気づいて、簡単に返信する。内容は、今晩の待ち合わせについて。それからまた、本に戻る。バスタブに注がれる湯の音が、浴室からくぐもって聴こえる。
 女の子が今日訪ねてこないことは、もう確信していた。それでもたまに、何か物音がしたときは反射的に玄関のほうを向いてしまう。風呂が沸くのを待つ間も、浴室で湯船に浸かっている間も、髪と体を丁寧に洗っている間も、たぶん僕はずっと女の子のことを考えていた。浴室を出て濡れた体を乾かしているとき、昨日のようにリビングで憂鬱な顔をした女の子が座っているところをふと思い浮かべた。わざと上半身裸のままリビングに戻ってみたけれど、女の子の姿はもちろんなかった、あわててシャツを着込む必要も、全くなかった。
 十二時半ごろにアパートを出た。地下鉄に乗って大学に向かう。その途中でハンバーガーショップに立ち寄って、昼食を取る。ページをめくる指先からフライドポテトの油がつかないように気を遣いながら、僕はドストエフスキーの小説の続きを読んだ。ときどき、店内に現れる髪の長い少女があの女の子ではないかと思い顔を上げる。でもそのたびに思い違いだったことを知る。氷が融けて水っぽくなったコーラを飲み干して、僕は店を出る。
 大学に着いてから、僕はまず数理学科の事務室で後期に開講される講義の概要を書いた紙を受け取って、その内容に簡単に目を通す。その後で同じ建物にある計算機室に入り、持ってきたUSBメモリから縦書き形式の「アイスパレスの王女さま」文章データをパソコンに移して両面刷りでプリントアウトする。キレイに印刷できているのを確かめてから、A4用紙五枚のその紙をカバンにしまい、部屋を出る。無人の講義室にかかっている時計を見ると、まだ二時少し過ぎ。ユサとの待ち合わせ時刻は六時だった。移動時間を多めに考えても、まだ三時間以上空いている。
 僕は数理学科の建物を出て、片側二車線の市道をまたいだ向こう側にある大学付属図書館に向かう。一昨日と同じように図書館に学生の姿はほとんどなく、机はどれも空いていた。適当な席に着き、先ほど印刷した「アイスパレスの王女さま」の紙と0.3ミリの赤いボールペンをカバンから取り出す。そしてそれを読みながら、文章の書き直しを始める。ボールペンの細い文字で、目についた誤字や脱字を修正する。また意味が通りやすくなるように文章を書き換えたり、そのシーンの状況を把握しやすくなるように新たに描写を書き加えたりする。表現を変えたり、文章を丸ごと削除したりする。赤い文字の訂正が次第に紙片を埋めていった。ひと通り修正が終るまでに、二時間近くかかる。気づけば時刻は四時を過ぎている。僕は紙とボールペンをカバンにしまい、替わりにiPodを取り出して、ユサが参加しているバンドの演奏を聴き始めた。ユサは四人組のガールズバンドを組んでいて、ヒマなときに集まってはライヴハウスで演奏したり、自分たちでCDを作ったりしている。プロを目指しているわけでもなく、あくまで趣味の範囲として。僕自身はまだライブを聞きにいったことはないけれど、新しい曲ができるたび、ユサからCDを受け取ってiPodに入れている。そして気が向いたときに聴いている。正直に言って、演奏自体は大したレベルじゃない。女の子たちが趣味的に、楽しそうに演奏している、という以外に評価できる部分はない。それでも僕は、たまに無性に彼女たちの曲を聴きたくなることがある。そういうとき、僕はいつも曲の中からベースの音だけを拾う。それが優れた演奏だからというわけではなく、ユサがベースの担当だからという、音楽的には不純な動機で。初めのころは騒々しい音の集合体の中から聞き取りづらいその低音を見つけ出すことに、遊戯的な楽しさを感じて聴いていた。それは何となくお祭りの人ごみの中から親戚の小さな子どもを探し出すのに似ている。あちこちに目を走らせてようやくその姿を見つけても、笑い声の余韻を残してすぐにまたどこかへ紛れて見失ってしまう。探し出して小さなその手をつかんでも、その手を振り切って逃げてしまう。それでも繰り返し聴き続けることで、その曲の構造の中でベースの低音がだいたいどの位置にひそんでいるのか、少しずつ把握していくことができる。その場所を先回りできるようにもなる。そのようにしてベースの音のクセを理解していくと、いつしか向こうにも態度の変化が生じる。すぐに僕の手を振り解いて離れてしまった親戚の子どもが、時折人ごみの中でこちらを振り返って手を振るように、ベースの低音がこちらに呼びかけているのを感じ取ることができるようになる。視線を感じる。声を聴く。そして少しずつ仲良くなる。そのようにして、僕はいつの間にかユサのベースを好きになっていた。
 そのつもりはなかったのに、疲労のせいかいつの間にか眠りに落ちてしまう。そしてまた夢を見た。その中ではいくつかの繋がりのない断片的なシーンがでたらめに展開された。例えばひとつのシーンでは子どもになった僕自身が橋を渡っている。その橋は子どもの頃住んでいた町にある橋と同一のものであるらしかった。でも実際には私鉄とJRの路線と直行する形の跨線橋のはずが、夢の中では何故か大きな河川をまたぐ橋にすり替えられている。そしてその橋の、欄干となっている金網フェンスの向こう側を僕は渡っている。足場とも言えないささやかなスペースに爪先立ちになって、必死に金網に指を絡みつかせて僕は横に移動している。でもすぐに息が切れてしまう。それなのにまだ全体の五分の一ほども進んでいない。見下ろすと川面までは気の遠くなるほどの距離がある。麻酔にかけられたように鈍く感じる絶望が、幼い僕を包む。それでも引き返すことはできず、僕は先に進む、そして案の定汗に濡れた指を金網から滑らせて僕は落下してしまう。川面に浮かんだ僕は、遠くで響く救急車のサイレンを聞く。あれが自分のもとに向かっていることを僕は悟る。胸に手を当てると、心臓の音がしない。それで僕は、自分がすでに死んでしまっていることを知る。そういうシーン。また他のシーンでは中学生のときのクラスメイトが現れて、僕に深刻そうな相談を持ちかけていた。でもそのクラスメイトとはそれほど仲が良かったわけでもないし、下の名前だってよく憶えていない。もちろん現実に相談を持ちかけられたこともない。それなのに夢の中で彼は相当深刻な悩み事を僕に打ち明け、解決策を求めていた。頼むよ、と彼は言った。お前しか頼れる奴はいないんだよ。彼の熱心さにも関わらず、僕にはその悩みを解消してあげられるようなアイディアは浮かばない。ただひたすら、彼が諦めてくれるのを待っている。
 ともかくそのようなシーンがいくつか繰り広げられた後、最後を締めくくったシーンは今朝見た夢と繋がりを持っていた。ふたりの人物がいて、その片方はおそらく今朝の夢に現れた会社員ふうの若い男だった。同じように座ったままの彼はもうひとりの人物に手厳しく悪態をつかれていた。それなのに反論するでもなく、卑屈そうにただにやにやと口許を歪めているだけだった、そしておそらくその態度がもうひとりの人物に一層の嫌悪感を催させていたのだろう。ネクタイを襟元でつかまれても、彼は横を向いて目を伏せるだけだった。あんたは惨めさ以外の何ものも表していない、と彼女は言った。男は否定するふうでもなく小さく笑った。つかんだネクタイをそのまま引っ張って、彼女は男を連れ出した。それはビルの屋上だった。座った姿勢の男を具体的にどのように移動させたかは省略されていた。ふたりは立って屋上の柵の向こうに見える夜景に視線を向けていた、そうして分かったことだけど女は男よりもずっと背が低かった。おそらく子どもなのだろう。それでも威圧的な態度は全く変えず、その少女は男に言った。あんたの車はこの光のどれかに違いないんだから、見つけるべきでしょ? 男はまた卑しく笑って、見つけられるわけがないと低い声でつぶやいた。
 空を飛べば? と少女は訊ねた。その声に不機嫌なニュアンスはあったけれど問いかけ自体は真面目な純粋なもののように聞こえた。できるわけがない、と男は答えた。反応は否定的なものだったけれど、初めて口許の笑みが消えた。少女は軽蔑したような表情を浮かべ、柵を乗り越えて縁のところに立った。やめろ、と男は短く言った。やめろ、そんなことをしても、頭をぐちゃぐちゃにするだけだ。少女は振り返って男を見つめ、苛立たしげに背後を指差して批判的に言った。この夜景の光のどれかが、あんたの車のライトなんだよ? どうして取り返そうとしないの? どうして前に進まないの? あたしにはこれが、無意味な言葉の羅列としか思えない。あんたは何がしたいの? どこへ行きたいの? 誰もあんたの惨めなだけの生活なんて見たくないんだよ。だったらせめて飛んだらどう? 飛んで、あたしたちを楽しませたら? 飛び方が分からないなら、見せてあげる。あんたは惨めたらしくいつまでもそこに立っていればいい。
 そうして少女は柵をつかんでいた左手を離し、前を向いて両手を広げた。ドキュメンタリー映画のように近接した視点が、あっさりと飛び降りる少女の姿を抑揚なく捉えた。そこで僕は目が覚めた。飛び降りた少女が空を飛んだのか、それとも男の言うように頭をぐちゃぐちゃにさせたのかは分からない。でも不安と悲しみの混合物は僕の顔をあからさまに切り裂いていた。きっと僕はあの男と自分を繋げて考えたのだろう、夢の中で少女が飛び降りるのを止められなかったことに、僕は責任のようなものを感じていた。いつの間にか曲の再生を終えていたイヤホンを耳からはずし、手のひらで顔を覆ってしばらくその波に耐える。ゆっくりと息をつき、カバンの中から携帯電話を取り出して何気なく時間を確認すると、すでに五時半目前に迫っている。すぐに図書館を出て地下鉄に乗らなければユサとの待ち合わせに間に合わない。僕はiPodをしまって、席を立った。夢の内容についていろいろと気づいたことがあったけれど、まだ整理できていなかった。歩きながら僕は考えをまとめた。だから足早に図書館の階段を下りている時、不意打ちのようにあることに気がついて、あ、と思わず声をもらした。階段を上る中国人留学生が不審げに僕を見つめて通り過ぎた。僕は少しだけ立ち止まった、でも地下鉄の発車時刻が迫っていることを思い出してすぐにまた歩き始めた。それでも頭の中では、飛び降りる直前の、大写しになった少女の顔を絶えず浮かべていた。あるいは僕の部屋を訪ねてくる、あの女の子の顔を。あの若い男は僕が以前書いた小説の登場人物だった。以前どこかで見たように思った風景は、僕が小説を書いているときに思い浮かべた風景だった。そして少女が男に突きつけた批判的な言葉は、あの女の子が小説投稿サイトでその作品に与えた批評だった。この小説は惨めさ以外の何ものも表していない。そんなものは、無意味な言葉の羅列としか思えない。少女の顔が女の子の顔に一致したのは、あるいはこれも目覚めた後の僕自身の脚色だったのかもしれない。いずれにせよ僕はきっと目覚めたときにもその符合に無意識のうちに影響されていて、だからこそ大きく感情を揺さぶられたのだろう。悲しみの出所を知ってほっとするよりは、予言めいた不吉さを恐れる気持ちのほうがずっと強かった。地下鉄に揺られながら、僕は夢のことを忘れようとした。何でもない、ただの夢に過ぎないと。でも落下する少女の映像は僕の頭から離れなかった。電車が途中の駅に停まって、開いた扉から乗客が乗り込むごとに僕はあの女の子の姿を無意識に探していた。もちろんあの女の子の姿はなかった。気持ちを切り替えよう、とそのたび思った。単なる夢に過ぎないんだから、深く考えることは止めよう、と。十五分ほどで待ち合わせの駅に着き、長いエスカレーターで地上まで上っている間、僕は表層的には夢のことを忘れることができていたと思う。でもやはり、不安な気持ちは完全には拭い去れていなくて、その後顔を合わせたユサに、あっさりと見破られてしまった。

 

(次回更新 7/10) 

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《あとがき》

 この章のこの節は、小説が一通り出来上がった後も、何度も書き直していまの形になりました。夢のパートはうっかりすると物語の筋から離れた意味のないものになってしまいがちで、それをうまく全体の物語になじませるためには、一度作品を書き終わってからでなければ難しかったのかもしれません。