水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【ねこキラーの逆襲】「クリスタルパレス発」

作成日時:2009年10月17日
更新日時:2009年10月17日
(以下本文)

 『クリスタルパレス』に行く前に、国道沿いのファミリーレストランに入って、ぐうぐう鳴るお腹を少しだけ満たすことにする。でも食べ過ぎちゃいけない。夜食は控えめにっていう平凡な忠告に従うためというよりは、それがツバメの指示だから。
 「お一人様ですか?」とおそるおそる訊ねるウェイターに、「ひとりです」と僕は笑顔で答える。不吉な影を表情に宿しながらも、ウェイターは僕をテーブル席に案内し、メニューを差し出し、「お決まりでしたらそこの呼び出しボタンを押してください」と決まり文句を言う。
 ウェイターが踵を返した瞬間に僕はボタンを押し、「キノコの雑炊をください!」と笑顔で言う。「かしこまりました」と答えるウェイターの表情は、いろんな感情が混ざり合っていた。でも、ともかく注文を取って厨房へ伝えてくれた。
 ウェイターがいなくなった後セルフサーヴィスの水を汲んで、でもすぐには飲まないでテーブルにあごを載せて、店内の様子を何となく眺める。夜の一時を過ぎているのに席はそれなりに埋まっている。向かいの席では清掃員の制服を着たおばちゃん三人組が大きな声で雑談している。その後ろの席には、赤い髪の男か女の人(たぶんどちらかだと思う)の後頭部が見える。別の席では眼鏡をかけた女子大生ふうの人がひとりでノートパソコンに向かっている。
 僕はテーブルからあごを離してきちんと座りなおし、立て続けに二回あくびをした。自分が眠くなってきていることに、そのとき初めて気づいた。コップの水を飲んでから、顔を洗いにトイレに行く。センサーで流れる水を両手で掬って顔を洗う。それで眠気も吹き飛んだと、そのときは思っていた。席に戻るとテーブルの上にはキノコの雑炊と透明な筒に入った伝票が置いてあった。
 湯気の立つキノコの雑炊を、全部食べきる前に僕は眠りに落ちてしまう。

   *   *

 目が覚めたとき、自分がどうしてここにいるのか分からなかった。目の前にあるキノコの雑炊を見て、それを注文したこと、食べていたことを思い出す。食べ物を無闇に残しちゃいけないっていう平凡で大切な忠告に従って、僕は器に残った分を反射的にかき込む。キノコの雑炊は冷めていた。そして相変わらず美味しくなかった。
 平らげた後何気なく時計を見ると、待ち合わせの二時まで十分を切っている。僕はあわてて立ち上がり、伝票を持ってレジに行った。対応したのはさっきのウェイター。僕に向けてさっきよりはいくらかマイルドになった複雑な表情を浮かべている。僕は雑炊の代金を支払い、「ごちそう様でした」と笑顔で言った。店を出る僕に、ウェイターは「またお越しください」と声をかけてくれる。
 停めておいた自転車に僕はまたがる。寒さが僕の吐く息を白くさせる。空気は張り詰めて冷たい。国道沿いに僕は走り始める。幅の広い国道は、大型トラックやタクシーの群れが威張った回遊魚みたいにすごいスピードで流れている。歩道を走る僕の姿は、闇に紛れる。風が、車の吐き出す排気ガスにまみれて意地悪な魔女みたいに僕に付きまとう。あえぐように空を見上げても、魔女の呪いのせいで星は見えない。
 『クリスタルパレス』はすでに視界に入っている。16階建てのそのマンションは、高台に建っているせいもあって遠くからでもその姿を見つけることができる。だから見えていても実は遠い。ここからでも、たどり着くまでにはまだまだ時間がかかる。それに長い上り坂をのぼらなくちゃならない。国道はいよいよ、その坂に差し掛かる。ペダルを漕ぐのが急に重くなる。ひと漕ぎひと漕ぎを踏みしめるように漕ぐ。胸が苦しくなる。自転車の速度がどんどん落ちる。でも僕は、意地でも足を地面につけない。踏ん張って、踏ん張って、ふらふらになりながら坂をのぼる。トラックがすぐ隣を猛スピードで走り抜けていく。『クリスタルパレス』はどんどん縦に伸びていく。部屋からもれるひとつひとつの光が、はっきり見えるようになる。
 坂を上りきると、『クリスタルパレス』のエントランスはすぐ目の前に現れる。僕はそこでようやく自転車を降りて、息を整えながら『クリスタルパレス』に入る。

   *   *

 ツバメはすでに屋上にいて、ヘッドホンの音に聞き入っている。ツバメ愛用の、バカが付くくらいでかいサイズのヘッドホンを、肘を張って、両手でしっかりと支えている。向こうを向いて座り込んでいるツバメに、僕はそっと近づく。ツバメは僕に気づかない。隣に座って、ツバメの横顔をのぞき見る。目を閉じて植物みたいにじっと動かないツバメの前髪を、冷たい風が通り抜けてかき乱す。僕は正面を向いて、ツバメが目を開いていたなら見ている風景を、代わりに見る。
 何も見えない。座っているせいで、目に映るのは闇に浮かぶ屋上の柵だけで、その向こう側は街の明かりが反映するぼんやりと明るい闇があるだけ。街の光はそのずっと下のほうにへばりついている。しばらくその風景を眺めていたけれど、段々と飽きてきた。立ち上がって、その光を見ようと思い立ったとき、隣に座るツバメの声が聞こえた。
「来てたんだ?」
 横を向くとツバメはヘッドホンを耳からはずしているところだった。遅れちゃってゴメンと僕が謝ると、ツバメは一瞬「何のことか分からない」という表情をした。でもすぐ「ああ、待ち合わせの時間のことね」という表情に変わって、そして「そのことなら気にしなくていいよ」と言うように小さく首を横に振った。
 そしてツバメは立ち上がった。肩から提げたかばんの中に入っている、ウォークマンのスイッチを器用に切る。延々と、風の音だけを収めたカセットテープの入った古いウォークマンは、従順な犬のようにぴたりとカセットテープの回転を止める。
 ヘッドホンから流れる風の音はやんで、『クリスタルパレス』の屋上に吹き荒れる風の音は、その分強くなった。

   *   *

 屋上の柵の向こう側に立つツバメは、目を閉じて呼吸を整え、風の音を聴く。通り過ぎるひとつひとつの風に注意深く耳を澄ませ、その感情(のようなものとツバメは言う)を丁寧に読み取る。全体としての風は一見複雑で予測不可能な動きをするけれど、そのようにしてバラバラにより分けられた個別の風は、実は穏やかで優しく常にその行き先を僕たちに教えてくれる。
 コミュニケーションだって取れる、とツバメは言う。風と友だちにだってなれるんだとツバメは言う。
 分解して、ひとつひとつを別々に把握した風たちを、今度は全体としての風の中に見る。初めは予想できない動きの集合としか見えなかった風も、今はひとつひとつのその要素をツバメははっきりと把握できている(友達になっている)。この風は全体の中でどういう役割をしているか、あの風は全体の中でどういう意味を担っているか、そういう風同士の繋がりを知ることができる。そのようにして、ツバメはゆっくりと風を知る。風もゆっくりとツバメを受け入れる。
 全部ツバメの受け売りだ。僕はまだ風の声を聴けない。と言うか、いつかそれができるようになるかも分からない。ただ、ツバメが風と会話を交わしていることは、何となく分かる。その会話の進み具合も、少しずつだけど段々と、分かるようになってきた。
 今、ツバメは第二段階に入っている。つまり、ひとつひとつの風を調べ終えて、風同士の繋がりを量っている。「風のことを本当に知ろうとすればキリがない」とツバメはよく言う。第二段階で風と風の関係を探っていると気づくその風の役割は、第一段階(つまり個別に風を知ろうとする段階)では気づかないことだから、この関係性を知った上で改めてその風について個別に調べてみたい、つまり第一段階をもう一度繰り返したいという欲求を生む。そうすることでその風とさらに仲良くなることができる。そしてまた、彼らをより知ったうえで第二段階で風たちの関係性に目を配れば、さっきまでは気づかなかった新たな繋がりを知ることになる。全てはエンドレスに続く。風については、知り尽くすということがない。
 だからどこかであきらめなくちゃならない。もちろんそれは、時間が限られているから、他に目的があるから仕方のないことだけど。風を知ることは(今は)目的のための手段でしかない。
 ツバメがそれをあきらめるタイミングは、僕にはだいたい分かる。そろそろだ。
「そろそろ行こっか」
 振り向いてツバメが僕を呼んだ。

   *   *

 柵を乗り越えるのは、もちろん怖い。それは僕が自分自身でやらなくちゃならないことだから、余計に怖い。柵をまたぐ途中で強い風に煽られたり、恐怖で足が震えたりして、体を崩して向こう側へ倒れこんでしまうかもしれない、とよく考える。その姿が勝手に浮かぶ。
 落ちたら死ぬ、と僕は思う。助かるはずがない。心臓が悲しくなるくらい速く鳴る。僕はビビリだな、とつくづく思う。イヤになるくらい思う。いつまで経ってもこの恐怖に慣れない。いつまで経っても僕は怖い。
 柵を越えるのを、ツバメは手伝わない。両手を後ろに組んで静かに見ている。その代わり、無事に柵の向こう側に降りたときは、すぐに僕の手を握ってくれる。あたたかい両手で、ぎゅっと。その瞬間僕はとてもほっとする。今までの恐怖がウソみたいにすっと晴れる。相変わらず、危なっかしいところにいることに変わりはないんだけれど。
「準備オーケー?」とツバメはささやく。
 もちろん! と僕は答える。
 ツバメは小さくうなずいてから僕の両肩をつかんで、ゆっくりと慎重に、僕の体を回転させる。そして背中から、僕をしっかりと抱きしめる。やわらかなツバメの体が、力強く押し付けられる。僕はツバメの体温を背中に感じる。いろんな音が遠ざかり、急にあたりが静かになる。
 ツバメは数回深呼吸をした後で、再び風の音に耳を澄ませる。屋上に吹き荒れるいくつもの風に、ツバメは意識を集中させる。ツバメの呼吸の音が不思議なくらい誇張されて、なまあたたかく僕の耳に届く。単調なその音は、でも急にぴたりと止まる。ツバメがひとつの風に狙いをつけたことが分かる。その風が近づく。僕を抱きしめるツバメの力が、もっと強くなる。
「ゴー!」とツバメは小さくつぶやく。ひときわ強い一陣の風が僕たちに襲いかかった、その瞬間、ツバメは僕を押し出すようにして前方に跳躍する。大きく翼を広げ、風に乗る。僕の足許が、すっと闇に消える。僕を抱きしめるツバメが、僕を上空へと引っ張っているような錯覚に襲われる。斜め下へ落下する僕たちは、すぐに上昇気流に乗って舞い上がる。
 僕たちは夜空を飛ぶ。

   *   *

 僕たちは夜空を飛ぶ。
 僕たちは街の夜景を上空から眺める。ずいぶんな夜更けだというのにもかかわらず、呆れるくらいの光の群れが明滅したり、移動したり、揺れたりしている。網目のような幹線道路に沿って、たくさんの車のライト(たぶん大型トラックやタクシーたちの光)が液体のように流れている。
 僕はいまや遠く離れてしまった『クリスタルパレス』を目印に、自転車を走らせた国道を見つけ出そうと目を凝らす。それらしい光の道はあるけれど、でもイマイチ確信がもてない。その道をたどっていけば僕がキノコの雑炊を食べたファミリーレストランの横を通るはずだけど、それも見つからない。道沿いに立つのっぽの看板は、どこにも見当たらない。
 でも、あのレストランはこの広い都市の中に確実に存在しているし、あの複雑な表情を浮かべるウェイターも、この広い都市の中に確実に存在している。
 僕は大きく息を吸い込んで、全部吐き出すつもりで大声をあげて眼下の都市に呼びかける。おーーーーーーいっ! 風の音に囲まれているせいで、ツバメは僕が何を言ったのか聞き取れない。「なに? 何か言った?」と大声で訊ねる。キノコの雑炊ごちそうさまぁーーーーーーっ! ツバメの質問に答えず、僕はもう一度そう叫ぶ。「何か言ったぁ!?」ツバメも大きな声でそう繰り返した。

   *   *

 しばらく夜間飛行を楽しんでから、僕は声を張り上げて、ツバメにもう少し上昇してほしいと頼んだ。
「いーよ!」とツバメは答え、上昇する風を選んでさらに上空に舞い上がった。でもまだ足りない。もっと! と僕はさらにお願いする。ツバメはより高く行く風を見つけ、翼を預ける。僕たちはさらに高度を増す。でもまだ足りない。もっと行けない!? と僕は訊ねる。時間はかかったけれど、ツバメの頑張りのおかげでさらに高いところまで僕たちは上昇する。足許に拡がる夜景が、ぐっと小さくなる。
「ずいぶん高いところまで来たね!」とツバメは僕に聞こえるように叫ぶ。「こんなに高いと、街の様子なんて全然分からないよ、光の粒しか見えないよ!」
 でもさ、こうして見ると! 叫びすぎたせいでちょっとだけむせてから、僕は続ける。夜景って、電光掲示板みたいだね!
「え? なに?」
 電光掲示板みたいだね!
「え? 電光掲示板?」
 そう!

   *   *

 その後僕たちは緩やかに下降して行き、ふいに無風状態の隙間へと入り込んだ。ずっとやかましく聴こえ続けていた風の音が、今は全くしない。おかげで僕たちはお腹の底から大声を張り上げなくても、会話ができる。ツバメは叫びすぎて少し嗄れた声で僕に訊ねた。
「夜景が、電光掲示板みたいだって言ったけど、でもぐちゃぐちゃで何が書いてあるのか分からないよ?」
 暗号なんだ、と僕もしわ嗄れてきている声でツバメに答えた。暗号の電子掲示板。だから普通には読めない。暗号を解くコードがいるんだ!
「コード、見つけたの?」
 まだ! 僕は首を横に振る。でもいつか、きっと見つけるんだ。それで、あの掲示板に、何が書いてあるかを読み解くんだ!
「誰が書いているんだろう」とツバメはつぶやいた。次の瞬間、僕たちは次の風に巻き込まれて、再び騒々しい風の音に包まれた。

 

(次回更新 7/3) 

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《あとがき》

 作中で語られる「クリスタルパレス発」は、僕自身が過去に小説投稿サイトへアップした作品のリメイクです。作品の骨格はほぼそのままですが、文章は大幅に書き直しています。
クリスタルパレス発」はある意味で記念碑的な作品です。これを書いたことで、小説を書くことへの構え方、考え方が少し変わったように思います。立派なものを目指して書かなくてもいいやという、どことなく自由な感覚。この作品を境に僕の書くものは「軽く」なったように思います。