水の底から

みずの そこから いろいろ かきます

【ねこキラーの逆襲】第1章 女の子と、ねこの目の女の子 (3/3)

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「ツバメのことを書いているとき、作者であるキシは
彼女のヴィジュアルを明確に想定しているか?

 浴室でシャワーを浴びていると、玄関のベルの音を聴いたような気がした。女の子が訪ねてくるにはまだ早い時間だったから、聞き違いだろうと思い込み、僕はそれを無視した。濡れた髪をタオルで拭きながら上半身裸のまま風呂場を出ると、ベッドに腰掛けた女の子が静かにこちらを見つめていた。もう来てたんだ。そう言いながら僕は慌ててシャツを着込む。ベル鳴らしても出て来ないから。女の子はどことなく憂い顔で言った。合鍵を使って勝手に入った。迷惑だった?
 キッチンでやかんに火をかけ、それから洗面所のドライヤーで簡単に髪を乾かす。リビングに戻ると女の子は先ほどと同じ姿勢のままベッドに腰かけている。奇妙なものを見るような目つきで僕を見つめる。コーヒーをいれるんだけど、飲む? 僕が訊ねるのへ、女の子は小さくうなずいて答える。いつもならすぐに本を読み始めるか、リュックの中のパソコンを起動させるのに、今日はベッドに座ったまま動こうとしない。僕への視線は逸らしたけれど、憂い顔の表情はそのまま、床のどこかを見つめたまま身じろぎひとつしない。手持ち無沙汰な気分のまま、僕は何となく女の子の着ている匿名的な無地のTシャツを見つめた。型崩れして拡がった襟元から覗く鎖骨の線が陶器のように滑らかに見えるのが、くたびれた服装と対照的だ。伸び放題と言った感じの長い髪が重たく肩にかかっているけれど、女の子の美しい目許と細い首筋のおかげで、過度に暑苦しいという印象は与えない。
 親指を口許までもっていき、無意識のうちにその爪を噛もうとするのを直前でやめ、女の子は再び僕を見つめた。口もとがかすかに動く。何かを言い出しそうな雰囲気だったけど、キッチンのやかんが盛んに湯気を立てていたので、僕はコーヒーをいれにその場を離れた。二人分のコーヒーを作りリビングにもっていくと、やはりこちらを見つめている女の子が憂い顔のまま口を開いた。キシの新しく書いてる小説、いつごろに出来上がりそう? 女の子にコーヒーのマグカップを手渡ししながら、でもけして目は合わさず僕は言った。一週間もかからないと思うよ。「夜鷹」の競作企画の締め切りは今月末だから、遅くともそれまでには仕上げるつもり。
 完成したら、読ませてくれる?
 うっかり視線を向けてしまった女の子の瞳はまっすぐ僕を見つめていて、あわてて目を逸らしながらもちろんと請合う僕の言葉は、自分の耳にも空々しく響いた。女の子をモデルに小説を書いていながら、当の女の子にそれを読まれることを今まで全く考えてこなかったことに思い当たり、とても奇妙に感じたし、同時に狼狽もした。何とかそれを回避できないかとも考えてみたけれど、そんなことが不可能であることも心の底では理解していたから、むしろ女の子に文句を言われたときにどのように謝ろうかというほうへ関心はすぐにシフトした。小説的虚構に過ぎないと納得させようとしても、成功しないだろうということは目に見えていた。少しはなれた位置に壁を背にして座り込み、ひざの上で熱いマグカップをもてあそびながら、僕はしばらく想像の中の女の子と想像上の問答を続けていた。
 今日も大学に用事があるの? コーヒーをひと口味わって、少し間をあけてから、女の子がふいにつぶやくように訊ねた。少し迷いながらも、そのつもりだと僕は答える。コーヒーに視線を落としていた女の子が一瞬顔をしかめたように見えたが、気のせいだったかもしれない。それを取り繕うためではもちろんないだろうけど、女の子は僕にはあまり聞き慣れないやや明るませた声で言った。昨日、家に帰った後で、あたしのパソコンに保存してあった「クリスタルパレス発」を読み返してみたよ。まあ短い作品だから、大した手間じゃないんだけど。それでね、昨日キシが使ってた言葉、現実パートと幻想パート、その区分があの短いお話の中にもちゃんとあるんだなって思った。興味を示してうなずく僕からはそっぽを向いて、女の子の視線はどこか全然別のところに向いていた。そのいっぽうで女の子の口ぶりは、いつもの女の子に似合わずやや熱をもっていた。女の子は続ける。つまりね、主人公の男の子が深夜のファミリーレストランでキノコの雑炊を食べているシーンから、クリスタルパレスという名前の高層マンションを上るシーンまでが現実パートで、その屋上で待ち合わせしていたツバメと会うシーンから、ツバメに抱きかかえられて夜空を飛ぶラストシーンまでが幻想パート。それは端的に地上を現実として、そして上空を幻想として捉えているとも考えられる。まさしく現実の世界から足を離して、幻想の世界へ飛び立っている。あたしが特に興味を持ったのは、主人公とツバメが飛行するシーン、つまり幻想シーンで、ツバメに抱きかかえられて飛ぶ主人公が、地上の夜景に目を向けているところ。幻想の世界に羽ばたいているのに現実の世界に目を向けている。目を向けているというよりはむしろ、釘づけになっている。キシ自身「ぬー」でコメントしていたように、冒頭のファミリーレストランはラストシーンの夜景の一部分として意味を持っている、幻想パートと現実パートは繋がっている。「クリスタルパレス」も「アイスパレス」も、あるいはキシの書く小説全部についても、やろうとしていることは同じなんだってぼんやりと思ったよ。幻想の世界から現実の世界を見つめること。キシの目指すものはそれなんだ。最後のひと言を言ったとき、女の子の表情に暗い影がよぎったように思えたけれど、それもやはり気のせいだったかもしれない。相槌を打って、女の子の語ったことについてじっくりと考えていると、女の子は急に嘲笑的とも取れる軽い調子の声でこんなことを言った。主人公の男の子に対して、ツバメはもしかしたらイラついているかもしれないね。驚きつつ理由を問う僕に、女の子は挑むような瞳を向けて答えた。だってツバメは主人公の男の子を現実から引き剥がそうとしているのに、男の子は未練がましく現実に目を向けている。それじゃ意味がないって、ツバメは思うかもしれないでしょ? まぁ、生みの親に異を唱えたって仕方ないかもしれないけど。そしてこの話題を終らせるためとしか思えない唐突さで、女の子はゲームをしようと提案した。僕の返事を聞く前に、女の子はさっさとゲームの準備を始めた。テレビの前に膝をついてかがみこみケーブルやゲーム機を取り出す女の子のうしろ姿を、僕はぼんやりと見つめていた。
 一人用のアクションゲームを、僕たちは「死んだら交替ルール」で一緒に遊んだ。一時間半ほどゲームをしながら、コントローラーを握っている相手を聞き役にヒマなほうが口を開く、というスタイルで会話をした。大抵は外野の視点からのゲームのアドヴァイスだったけれど、ときどき女の子は先ほどの話の続きとしてツバメについて、僕に訊ねた。Q.ツバメのことを書いているとき、作者であるキシは彼女のヴィジュアルを明確に想定しているか? A.ツバメについては外見を明確には考えていない。むしろ彼女については意識してそれをあいまいにしようとさえした。それはツバメという彼女の名前にも現れている。いくら幼いとはいえ、男の子を抱えて空を飛ぶ少女の名前として、ツバメはあまりにか弱い。さっきの幻想パートという言葉に従えば、そうしたミスマッチによってツバメの幻想性を高めようとしたのかもしれない。Q.ツバメは鳥としての燕と何か関わりはあるのか? A.小さくて素早い鳥、という鳥としての燕の印象はツバメが少女であるということくらいにしか関わりを持たないかもしれない。少なくとも少女ツバメの外見は鳥としての燕と繋がりを持たないと思う。Q.ツバメの服装についてのイメージはあるか? A.ベージュっぽい色の服を着ている印象だけど、その種類はよく分からない。Q.ツバメは主人公の男の子に恋してる? A.してない。Q.キシはツバメを見たことがある? A.ないよ、もちろん。
 ゲームが終った後、しばらくふたりそれぞれ時間を過ごした。女の子はベッドに横たわってプログラミングの本を読んでいた。僕はドストエフスキーの小説を読んでいた。部屋はとても静かで、お互いのページをめくる音だけが奇妙に誇張されて響く。時間はひどくゆっくりと流れた。ようやく時計の短針が「11」に狙いを定めたころ、僕は女の子に手伝ってもらって昼食の用意を始めた。僕たちはピラフを作った。炒めた米を炊飯器で炊いている間に、僕は簡単にサラダとスープを作った。女の子は洗物をしてくれた。他の支度が全て済み、後はピラフが炊き上がるのを待つだけになった。僕は冷蔵庫に冷やしておいたサラダにピーマンが入っていることを思い出し、女の子にピーマンは嫌いじゃないかと訊ねた。大丈夫、と女の子は答えた。何か食べられないものはないかと訊ねると、女の子は不快そうに眉をひそめ、何か小さくつぶやいた。聞き取れないと伝えると、女の子はとても不機嫌そうな吐き捨てるような声で、赤いもの、と言った。赤いもの? と僕はそのまま繰り返す。女の子は僕に背を向けて、ベッドの上に置いてあったプログラミングの本に手を伸ばして読み始めた。僕は少しだけ冗談めかした声で、今日の昼食には赤いものは入ってないから安心して、と伝えた。でも女の子は何も応えなかった。
 ピラフが出来上がり、器に盛って女の子と食べた。ピーマンの入ったサラダをつつきながら、食べ終ったら大学へ出かけると女の子に伝える。女の子は返事をしなかった。相槌も打たなかった。食事の間、会話はほとんどなかった。ふたりともただ黙々と目の前の料理を食べていた。食事が終り、使った食器を流しまで持っていって湯を沸かす間に洗っていると、女の子が後ろを通り過ぎる気配がした。何気なく振り返ると、リュックを背負った女の子が玄関のドアノブに手をかけている。どうしたの、と訊ねると、あたしはもう帰ると女の子は不機嫌そうにつぶやいた。泡立つスポンジを手に持つ僕を不思議なほど胸を打つ視線で見つめ、女の子は続けた。キシはあたしがそばにいると小説を書けないみたいだから。キシはここに残って、小説の続きを書けばいい。あたしはその邪魔をしたくない。小説が完成したら、また遊びに来るよ。でもそれまでは、もうここには来ない。じゃあね、キシ。新しい小説、楽しみにしているよ。そして女の子は部屋を出て行った。待って、と呼び止めたけど、女の子は一顧だにしなかった。僕も後を追って部屋を飛び出そうとしたけれど、手についた泡を洗い流したりコンロの火を消したりするのに手間取ってしまったから、アパートのエントランスを出てもすでに女の子の姿はなかった。僕は女の子の名前を叫ぼうとした。でも叫ぶべき名前を僕は知らなかった。しばらくあてもなく近所を探し回ってみたけれど、女の子を見つけることはできなかった。奇妙に静かな昼だった、通りに人の姿はほとんど見当たらない。まるで僕だけがひとりこの街に取り残されているみたいに。
 僕はあきらめて部屋に戻った。空調の利いた部屋で火照った体を冷やし、やりかけの洗物を済ませ、改めて湯を沸かしてハーブティーをいれた。それに口をつけながら、僕は女の子に言われた通りパソコンに向かって小説の続きに取り掛かった。ラストシーンまでの構想はすでに固まっていたから、後は丁寧に文章を探り当てていくだけでよかった。時間はかかったけれど、ペースが滞ることはなく、夕暮れまでには小説はひとまず完成した。ラストシーンでねこの目の女の子は初めて感情を外に出し、顔を覆って泣きじゃくっていた。実際にその部分を文章にしているとき、僕の胸は意外なほど波打った、その展開自体は昨日の段階ですでに決めていたのにも関わらず。最後の一行を仕上げてから、僕はパソコンをネットに繋いでメッセンジャーを立ち上げた。でもオンラインのメンバーはひとりもいなかった。僕はパソコンの電源を消した。まだ陽は沈んでいなかったけれど、グラスに注いでウィスキーを飲んだ。ベッドに寝そべって、ゲームを始めた。素早いペースでグラスを乾し、そのたび新しいウィスキーを注ぎ足していたから、酔いはあっという間にまわって取り返しのつかない地点まで僕を導いた。データをセーブするのも面倒で、そのままゲームの電源を落として僕はベッドにもぐりこむ。窓の外はまだ薄暗くなり始めたばかりだったけど、吸い込まれるようなアルコールの酔いに僕は抵抗しきれなくなっていた。結局、夕食も取らずそのまま眠りに落ちてしまう。ひどい眠りを僕は眠った。
 だからその夜にユサからのメールが僕の携帯電話に届いたことも、僕は朝まで気づかなかった。

 

(次回更新 6/26) 

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《あとがき》

 小説を書くのはけっこう孤独で、悲しいことに書いた後もやっぱり孤独です。読んでもらって、感想を聞ける機会なんてほとんどありません。また、聞けたとしても、多くの場合何となく物足らない気分になることがほとんどです。それはもちろん、書き手の問題なのですけど。
 その意味でこの「女の子」は書き手の身勝手な理想を押し付けたキャラクターと言えます。まさに聞きたいこと、返して欲しい言葉を理想通り返してくれる存在です。ありがたや。書いていてとても楽しい登場人物です。このキャラクターを掘り下げていくことができたのが、この長編を書き上げたことの、一番の成果なのだと思います。